今日も気温が高く、風もあり、大量にしたお洗濯ものも気持ちよく乾きました。

1月に観た各座の歌舞伎を振り返りたいのですが、なかなか思うように時間がとれません。

書きかけのブログがありました。新橋演舞場の新春大歌舞伎夜の部の口上について。ずらり並んだ市川一門の柿色の裃、鉞髷(まさかりまげ)に感動し、書き残しておきたくなったのでしょう。ちょっと書き足し更新します。

5日と19日に観た夜の部の口上。
三代目市川右團次を襲名、関西歌舞伎の大名跡、三代目市川右團次を襲名、81年ぶりに復活させた。

中央引き合わせ役は梅玉。その隣下手右團次、左隣にちょこんと右近ちゃん。梅玉の右に猿之助、男女蔵、右之助、海老蔵、下手外側から、門之助、中車。

3月号の「ほうおう」にも、右團次襲名の経緯を9年前に海老蔵から声がかけられたこと、世襲の生まれでないという葛藤もあったそうですが、「海老蔵丈、二代目右團次の孫にあたる右之助丈、生前の團十郎丈も心良く受け入れ」、その後(2年前)さらに海老蔵から、ご子息タケル君も役者になさるのなら、急がねばと今回の襲名にむけて一気に動き出したとの、エピソードが載っていました。

筋書きによると、早替わり、宙乗り、早替わり、本水の立廻りという、二世右團次のケレンが盛り込まれており、猿之助自身9歳のとき演じており、6歳の右近を、史上最年少の宙乗りと紹介した「雙生隅田川」という演目を薦めたのは、猿之助丈。

こうしたエピソードからも、右團次さんが海老蔵、澤瀉屋にいかに貢献し感謝され大切に思われているかが、うかがえます。本当に嬉しい、おめでたいご襲名でした。

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とてもお勉強になるのでときどき読ませていただいている 猿三郎さんのブログに口上の衣装や鬘、作法についてもわかりやすく書いてくださってました。こちら↓

 市川宗家だけが使える「油付研ぎ出しのまさかり」、團十郎さん亡き後、いまこの髷を使えるのは海老蔵のみ。また、門下に許される「油付の櫛目のまさかり」という髷は、澤瀉屋さんでは、猿翁旦那 段四郎さん それに猿之助さん、瀧乃屋の市川門之助さんだと、猿三郎さんのブログに書いてありました。左團次さんもこの髷が許されており、ブログで、蔦の助さんが、よくわかる画像で紹介してくださってました。↓



高麗屋も、市川宗家のお弟子さんだったから鉞髷でしょうね。

油付き櫛目のまさかりを許された門人以外は、袋つきまさかりという、男髷だそうです。

猿三郎さんが書かれた当時は、中車さんはこちらだったそうです。右團次さんは、どうだったのかなぁ。正面から観た感じではわたしにはわかりかねましたが、こういう慣習も興味深いです。

なぜ、成田屋は鉞髷(まさかりまげ)なのかというと、これは猿三郎さんのブログからの一部抜粋、

「成田屋は成田山新勝寺の不動明王から、荒事のご託宣を受け 歌舞伎の演目に取り入れました。
そこでその不動の掲げる〈まさかり?・・・剣?〉にて悪霊を退治するという例に倣い 
髷を〈まさかり〉にしたと云う謂れがあります。」
こう解説してくださったのは猿之助さんなのだそうです。

なるほど〜。

鉞髷の違いを見定めようと一生懸命みましたが、わかりませんでした。^_^ 


猿三郎さんのブログの海老様、みーつけた(^з^)-☆


市川一門、市川宗家とは?

以下は、
中川右介著 悲劇の名門 團十郎十二代 よりの書き写しです。

市川團十郎家は「市川宗家」とも呼ばれる。「宗家」という語は能楽において最初に使われ、(途中略)、市川姓を名乗る役者の総帥が市川宗家たる市川團十郎なのである。しかし、歌舞伎界には他にも中村や尾上、あるいは片岡などの一門があるが、中村宗家や尾上宗家とは呼ばない。そもそも歌舞伎は市川一門に限らず、厳密な意味で「流派」があるわけではないので、師弟関係はあっても、家元制度はない。それなのに、市川宗家のみが「宗家」と称するのだ。そこには市川團十郎家が江戸歌舞伎の宗家であるとの意味が込められている。

なぜ、市川團十郎家が江戸歌舞伎の宗家なのか。理由のひとつは、初代團十郎以前にも歌舞伎はあったが、現在にまで続く歌舞伎の源流は初代によって生まれたといって過言ではないからだ。

また、市川姓を名乗らない役者たちも、何代か遡れば、直接間接に歴代の團十郎と師弟関係にある。

祝い幕。
市川右團次の屋号は高嶋屋。
定紋は、松皮菱に鬼葛、三升に右。

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二代目右近は澤瀉屋、定紋は、澤瀉鶴。

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