『雨あがる』形式偏重主義者の優しい蹴り飛ばし方 | シネマの万華鏡

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ミッション完了

2カ月近く前に、とあるブロガー様よりこの映画の感想を聞きたいというメッセージをいただき、『散り椿』公開の前に観たんですが、記事にするのがすっかり遅くなってしまいました。

その間にメッセージを下さった方はブログを休止されてしまったので(汗)、読んでいただけるかどうかちょっと心配ですが・・・

故・黒澤明監督が山本周五郎の短編をもとに書いた遺稿を、黒澤組のスタッフたちが映画化。剣の達人でありながら人の良さが災いし、思うように仕官になれない浪人をユーモラスに描く。(中略)

享保の時代。浪人の三沢伊兵衛とその妻は、長雨のため安宿に居を構えた。ある日、若侍の諍いを難なく仲裁した三沢は、通りかかった藩主・永井和泉守に見そめられ城に招かれる。三沢が剣豪であることを知った和泉守は、彼を藩の剣術指南番に迎えようとするが…。

(allcinema ONLINE より引用)

引用文にもあるように、1998年に亡くなった黒澤明の遺稿をもとに、黒澤明の弟子・小泉堯史がメガホンをとって製作、1999年に公開された作品です。

作品冒頭にも黒澤明追悼作品である旨が掲げられていて、本作の最大の製作目的はそこ。

その事実を度外視してこの作品を語ることはできません。

 

なお、小泉堯史は、黒澤明の弟子・木村大作が監督を務めた現在公開中の『散り椿』の脚本も手掛けています。

 

追悼キャスティング

キャスティングも、黒澤明追悼作品だということが色濃く出ている要素のひとつ。

主演の寺尾聡、宮崎美子、原田美枝子、仲代達也、井川比佐志、吉岡秀隆などは皆黒澤の常連か一度は出演したことがあるメンツで、小姓役の加藤隆之は『七人の侍』などで知られる加東大介の孫、また殿様役の三船史郎は言わずと知れた三船敏郎の息子(三船敏郎自身は97年に他界)です。

主要登場人物は黒澤明に縁の深い役者で固められているんですよね。

 

特に、ある時期から黒澤明と不仲説が囁かれていた三船敏郎の長男・三船史郎の出演は、「追悼」の2文字があって初めてその意義が見えてきます。

 

ちなみに、今年映画化された『サムライ 評伝三船敏郎』では黒澤ー三船の不仲説を否定し、「黒澤さんが結局最後まで愛したのはミフネだけ」という某氏の言葉をはじめ、二人の屈折した愛情を物語るエピソードをいくつも紹介しています。

 

 

事の真相は当人にしか分からないことですが、少くとも周囲は二人の間に愛情を見ていたし、それだからこそのこのキャスティングなんでしょう。

 

・・・とここまで書いたあたりで、だいぶこの作品についてとやかく言う気は失せてきます。
黒澤明の一周忌に、黒澤明を一番よく知る人たちが黒澤作品の最高のオマージュを捧げた試みに、傍からケチをつけるなんて野暮。
実は記事にするのをしばらく放置してしまったのも、そういう想いがあったからなんです。

 

形式偏重主義を脱形式偏重主義で表現した名シーン

ただ、オマージュゆえの制約は差し引いても、私は結構この作品が好きだったりします。

好きなシーンまでの顛末を軽くさらうと、主人公は、風采の上がらない浪人者・三沢伊兵衛(寺尾聡)。見かけによらない剣豪で、剣術指南役として仕官したこともあるものの、人間関係がうまくいかず脱藩。

妻(宮崎美子)を連れて浪々の旅路の途上、大雨で川を渡れず宿場に長逗留することになり、そこで偶然藩主(三船史郎)に剣の腕前を披露する機会がめぐってきて、仕官の話に発展します。

ところが、三沢の或る行動ーーそれは武士にとっては卑しい行為ーーが問題になり、仕官の話は御破算に。

 

 

私が好きなのは、藩主の使いで家老が三沢の宿を訪れ、仕官の話が駄目になったことを伝えるシーン。

三沢が何故武士の風上に置けないような行為をしたのか、それが彼の人間としての温かさから出た行動だったことを知っている三沢の妻は、ここで家老にあっと驚くような大胆な暴言を吐くんですよね。

そしてこう言う。

「大切なことは、何をしたかではなく、何のためにしたかということではございませぬか」

 

江戸時代の女性が、地位のある武士に対して、あんな暴言を吐くことはまず考えられません。

多分あの家老は、藩主以外からそんな言葉を浴びせられたことは後にも先にもなかったんじゃないでしょうか。

時代考証という観点から言えば、ものすごく突飛でありえないシーン・・・でも、ここですごく心を打たれるのはどうしたことか。

水風船がはじけたような圧倒的カタルシスが押し寄せる感覚。

 

このシーン、三沢の妻女は物凄く怒っている想定のはず。でも、宮崎美子の顔ってすごく愛嬌があって、怒りが似合わないんですよね。

それがこの場面では逆に活かされてる・・・とにかく彼女の愛情溢れる怒りの表情がとてもいいんです。

 

唯一残念なのは、彼女と向き合っている家老の表情が映らないこと。

ここは映すか映さないかは製作側も迷ったところじゃないかと思いますが、きっと宮崎美子の向こうを張れるようなリアクションが思いつかなかったのかもしれないですね。

 

はっきり言ってこのあたり、リアリティーという点では問題外かもしれません。

でも、ここはそれこそ宮崎美子の言うように「大切なのは、何をしたかではなく、何のためにしたか」。

形式偏重主義を蹴り飛ばせ!というメッセージに免じて、形式のリアリティーにこだわるよりも、開き直った女の強さ、形式偏重主義を鮮やかに蹴り飛ばした素晴らしい夫婦愛の描写に拍手を送りたい気持ちです。

 

やさしい現実主義

もうひとつ好きなのが、この作品全体に漂う、やさしい世界観。

人が温かい、という意味でもやさしいし、三沢伊兵衛自身、自分流の生き方にこだわりつつも、けして尖った生き方は目指していないということが。

 

椿三十郎は藩の危機を救って仕官の話が持ち上がったにもかかわらず、黙って去って行きましたが、三沢は仕官の話が壊れた後も、「あの殿様なら私にもつとまると思ったんだが」と残念そう。

どこまでもカッコいい孤高のアウトローではなく、自分に合う藩なら仕官したいと思っている、ごく普通の安定を求める男なんですよね。

 

椿三十郎みたいな生き方は憧れです。

カミソリのように切れて、妥協しない。欲がない。

でも、見ていてしんどい時もあります。ああはなれない。

その点三沢伊兵衛の物語は、普通の人間に歩み寄っているのが、どこかほっとします。

そういうやわらかさはこの作品全体に漂っていて、だからなのか、正直言って演技派とは言えない三船史郎の演技も、この作品の中で見ると逆に人間くさくていい。

それこそ、「あの殿様なら私にも務まると思った」という三沢の言葉がすっと馴染みます。

 

旅立っていく三沢夫婦を、殿様が馬を飛ばして追いかけるシーンで、幕。

追いついてほしいという思いと、乞い求められている、この或る意味で最高に幸せな時間がいつまでも続いてほしいという思いと・・・三沢伊兵衛史上恐らく一番幸せな瞬間(本人は気づいてないけれど)で幕を閉じるこの絶妙な切り取り方も好きです。