『君の名前で僕を呼んで』の後に『モーリス4K』を観て思ったこと、絞りに絞って3つだけ。 | シネマの万華鏡

シネマの万華鏡

映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

『モーリス』が4Kで蘇った!

『君の名前で僕を呼んで』の公開を記念して、同作品の脚本を手掛けアカデミー賞脚色賞を受賞したジェームズ・アイヴォリー監督の『モーリス』(1987年)4K版が全国で順次公開されています。

もう好きで好きでたまらない作品なので、嬉しくて(ノ◇≦。) 

私も初日に観てきました。

 

私自身は勿論DVDを持っていますが、『モーリス』は今や近所のTSUTAYAにも置いてない状態。今回の4K版上映も上映館は少なくて、なかなか映画館までは行けないという方も多いと思いますが、これを機会にDVDが再販売されて、たくさんの人に『モーリス』を観られるようになってくれたら!

欲を言えば、削除シーンが多い作品なので、新しいDVDには特典で削除シーンも収録してもらえるといいな・・・なんて、夢がどんどん膨らんでます。

20世紀初頭のイギリスを舞台に2人の青年が織りなす禁断の愛を描き、1980年代の同性愛を描いた映画として高く評価された文芸ロマン。文豪フォースターが1914年に執筆したものの同性愛という題材のため出版がかなわず、作者死後の71年にようやく出版された同名小説を、「眺めのいい部屋」のジェームズ・アイボリー監督・脚色で映像化した。ケンブリッジ大学に通う青年モーリス・ホールは、良家の子息クライヴ・ダーラムと互いに惹かれ合う。プラトニックな関係のまま学生生活を終えた2人は、それぞれ別の道を歩みながらも交流を続けていたが、やがてクライヴは母に勧められた女性との結婚を決意。傷ついたモーリスは、ダーラム家の猟場番の若者アレックと恋に落ちる。モーリス役のジェームズ・ウィルビーとクライヴ役のヒュー・グラントは本作で第44回ベネチア国際映画祭男優賞を受賞。アレック役にルパート・グレイブス。

(映画.comより引用)

 

なお、以前書いた『モーリス』の記事はこちら↓にあります。今回の記事はこちらを読んでいただけた前提で書きました。

 

「モーリス」(Maurice)その1

「モーリス」(Maurice)その2 腐った目線でもう一度。

 

エピソードがぎっしり詰まった2時間21分

 

映画の尺は通常2時間。一体何シーンくらいで構成されるのが標準的なんでしょうか?

今回『君の名前で僕を呼んで』の翌日に『モーリス』を観て、今まで考えたことのなかったそんなことをふと考えました。

というのも、『君の名前~』に比べて、『モーリス』は格段にシーンの密度が高い気がしたから。

 

1988年の日本公開当時のパンフに掲載されているシナリオで数えると、『モーリス』にはなんと2時間21分の間に52もの場面が詰め込まれています。

モーリスがケンブリッジ大でクライヴに出会い、恋に落ちてから、クライヴに一方的に別れを告げられるまででも1つの物語になりそうなのに、その後結婚したクライヴの屋敷にふたたび出入りするようになって、そこで猟場番のアレックに出会い、彼と身分差を超えた恋を成就させる・・・という、モーリスの新しい恋の顛末までも描いた作品だけに、場面が多いのは当然と言えば当然。

でも、シーンが多い理由はそれだけではありません。

 

この作品には、原作小説と同じく、モーリスやクライヴたちが生きた時代や、彼らの人間性・家庭環境までもが詳細に描き込まれています。

原作に忠実に、できる限りのシーンを盛り込もうとした姿勢、それだけをとっても、ジェームズ・アイヴォリーがどれだけこの小説に惚れ込んでいたか、彼の情熱が伝わってきます。

 

本作の詳細な人物描写の中でも、特に、原作者E・M・フォースターがクライヴに近い人物像であるクライヴについては描写が濃密。

何故クライヴはモーリスとの愛よりも保身を選んだのか? 臆病にならざるをえなかったクライヴの事情が、彼の広大な屋敷、高慢な母親、世間知らずな姉とその夫、一家と神父との密接な付き合い、慇懃にふるまうかたわら、クライヴとモーリスの秘密を見通していることもちらつかせる執事のシムコックスなど、彼を取り巻く人々の姿を通して、見事に浮き彫りにされています。

 

形式偏重主義の権化のような母親に反発していたクライヴが、やがて母親が期待した通りの人生を歩み、母親そっくりになっていくのも、モーリスとの心の距離が遠ざかっていくことを示すかなしい変化。

逆にモーリスのほうは、サウスロンドンで労働者にボクシングを教えるシーンなどで、彼とアレックが結ばれることが決して唐突な展開でもクライヴへの復讐でもなく、モーリスはもともと階級意識にとらわれていない人間だったことが伏線として示されています。

全てのシーンを丁寧に追っていけば、あの結末が3人にとって自然かつ必然のものだったということがすっと腑に落ちる仕掛けです。

 

冒頭に登場するデューシー先生(サイモン・キャロウ)や、モーリスの母親(ビリー・ホワイトロー)など一部のキャストの演技はコメディ色が強い味付けになっているものの、作品の奥行きはとても深い。

当時駆出しだったジェームス・ウィルビー、ヒュー・グラント、ルパート・グレイヴスの演技は少しぎこちないけれど、そんなことは大した問題じゃないと思えるくらい、こまやかな心理描写・時代背景描写が、説明調に陥ることなく積み上げられています

 

言葉に頼らない巧みな心理描写

 

今回本作を観直して改めて感じたのは、或る時点を過ぎるととても率直に自分の気持ちを表現し始める『君の名前で僕を呼んで』の2人と違って、『モーリス』の3人は全く自分に正直じゃないし(その理由は時代背景にあります)、彼らの心はギリギリまで常に揺れ動いているということです。

そして、正直じゃない3人の、言葉の裏側にある純粋な想いに気づかされた時の驚き、痛み・・・そこにこの映画の核心があるということにも。

 

なかなか本心を露わにしない彼らの気持ちを覗かせるテクニックのひとつが、構成の妙。

例えば、この作品にはピアノが登場するシーンが二度あります。

1度目は、モーリスとクライヴがリズリーの部屋で初めて言葉を交わした後、寮のピアノラでチャイコフスキーの『悲愴』を聴く場面

ピアノラを演奏する真似事をしながら、1つのリンゴを齧り合う2人の姿には、すでに誰も割り入る隙などない一体感が漂っています。

この日恋が始まった、と観客に確信させるシーンです。

 

そして2度目は、ダラム家の居間での団欒のひととき、突然始まった雨漏りを避けるためにモーリスとアレックがピアノを移動させるシーン。

作業のために呼ばれたアレックが現れると、クライヴたちはさっさと寝室に引き上げていき、モーリスだけがアレックを手伝います。

このシーンの前に、アレックがモーリスを意識していることを仄めかすシーンがあって、アレックの気持ちはもう判っているんですが、この時点でモーリスのアレックへの感情はまだ未知数。

ただ、ピアノというアイテムがモーリスとクライヴが意気投合したあのシーンを思い出させるだけに(そして精神分析ではピアノは性的なアイテムと見做されているだけに)、モーリスの行動は意味ありげ・・・少なくともアレックはかなりモーリスを意識しているように見えます。

主人やその友人たちに差し出た口をきくことは許されないはずのアレックが、モーリスに「もう少し、もっとあっちへ」と指図しているのが微笑ましい。

 実はこのシーン、原作ではモーリスはピアノを動かすのを手伝っていないんです。

一目で状況把握ができる絵を作り上げる、映像作品ならではの巧妙なアレンジなんですよね。

 

そして、最後の最後で漸く本心を見せるクライヴの描き方の巧みさに至ってはもう!

中盤以降、政治活動を始めてからはどんどん俗物化し、色褪せて見えるクライヴですが、封印していた彼のモーリスへの想いが一瞬露わになるラストシーン(ただここでも彼はそれを言葉にすることは決してないのですが)では、それまで彼に感じていた幻滅を全部帳消しにしてお釣りがくるくらい、クライブに肩入れしてしまいます。

 

起承転結を引き締めるテーマ曲の使い方

 

もう一つ、テーマ音楽の使い方も、クラシカルだけれど上手い。

本作のオープニングは、テーマ曲が流れる中、教師(デューシー先生)が少年モーリスを呼び、浜辺を歩きながら性について話すシーン。

ここでデューシー先生は、「僕は結婚はしません」と言うモーリスに、

「今から10年後、君と君の奥さんを食事に招こう」

と言います。

ところが、10年後偶然デューシー先生に再会した時、モーリス隣りにいたのはアレックだった・・・この再会シーンでもオープニングと同じ音楽が流れ、あの時の先生の言葉を思い出させてくれます。

ここはモーリスが、自分にとっての運命の相手は、実はクライヴではなくアレックだったことに気づく、物語の重要なターニングポイントです。

モーリスが自分の名前はスカダーだ、とアレックの姓を名乗っていることが彼の無意識の意思表明になっているんですが、それだけでなく、冒頭と同じ音楽が繰り返されることで、運命を見極める時が訪れたことが観客にも伝わります。

テーマ曲のめくるめくような高揚感に打たれる、とても感動的なシーンです。

 

このテーマ音楽は、エンドロールで再度流されますが、その際は長調に転調しています。

モーリスを失ったクライヴの喪失感をスクリーンいっぱいに漲らせたラストシーンから暗転、オープニングではモーリス少年の未来への漠とした不安を映し出すかのような不安げな音色を帯びていたものが、物語が幕を閉じた後は一点の曇りもない明るく澄み渡った旋律に。

デューシー先生との再会シーンで「運命」というイメージを付与されたこの曲は、モーリスとクライヴの運命を分けた時代という高い壁、その壁を乗り越えたモーリスとアレックの勇気に想いを馳せながら物語を振り返るエンディングにピッタリ。ラストシーンのクライヴの悲しみが柔らかな痛みになって心に沁みていきます。

 

『君の名前で僕を呼んで』の、言葉を削ぎ落したミニマルな美しさに魅せられた後、『モーリス』を観直してみると、やはりこの作品でも、言葉が極限まで抑制されていることに気づきます。

 『君の名前で僕を呼んで』を観て、ふと映像化作品は原作を超えうるのか?という長年の疑問を思い出したんですが、もしかしたらそれは、ジェームズ・アイヴォリーの映像作りのテーマそのものだからなのかもしれない・・・という気がしてきます。

 

87年当時は「男どうしの駆け落ちの話なんてファンタジーにもほどがある」と失笑されかねなかった時代。今だってそんなふうに言い捨てる人がいるかもしれません。

でも、男と女のラブストーリーだって、殆どが異性への幻想。言ってみれば恋愛の形をしたファンタジーですよね。

 

ただ、夢見がちなラブストーリーの殆どが時代に置き捨てられていくなかで、『モーリス』は21世紀に残ったということ。これは凄い。

それはたまたま時代が追い風になったから、というだけじゃなく、この物語が階級社会や因習との戦いというテーマも孕んでいるから、なおかつ、映像作品として優れているからだと思います。

メチャメチャ豪華な特典付きのDVD発売を期待しています。買う気満々です。