キャスリン・ビグロー監督『デトロイト』 史実の映画化の限界と映画ならではの感動と | シネマの万華鏡

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歴史的暴動の中で起きた、警察官による無実の黒人未成年殺害事件

1967年にミシガン州デトロイトで起きた黒人による暴動(いわゆる「デトロイト暴動」)を、その混乱のさなかアルジェ・モーテルで起きた警察官による黒人未成年3名の射殺事件を中心に描いた作品。キャスリン・ビグロー監督。

 

このところアメリカで増加している人種差別に根差した犯罪(ヘイト・クライム)に対する抗議の意味を込めて製作されたものだとか。

話を聞いた当初は、何故50年も前の事件を?と思いましたが、アルジェ・モーテル事件では加害者の警察官は全員無罪になっていて、事件の真相自体いまだに語られていないということを考えると、この事件、50年経ってもけっして終わってはいないんですね。

最初はあまり食指が動かなかった映画ですが、事実を知るにつれて興味が湧いてきて、遅ればせの観賞となりました。

 

NHKのドキュメンタリー番組『デトロイト暴動 真実を求めて』

正直に言うと、このテの事件を題材にした商業映画には期待できないというのが私の経験則。

映画である以上脚色が入るし、しかも、どんな風に脚色されるかなんとなく想像がついてしまう・・・

それもあって、あらかじめ事実関係を知っておいたほうがいいかなと思い、NHKのドキュメンタリー番組『デトロイト暴動 真実を求めて』(2/2放送)を観てから映画を観賞しました。

NHKのドキュメンタリー番組は客観的で偏向がない、と言いたいわけではありませんが、記録で構成されている分、事実関係を知るには少なくとも映画よりは役に立つので。

 

『デトロイト暴動 真実を求めて』は、当時アルジェ・モーテル事件を取材したジャーナリストのジョン・ハーシーの著作"The Algiers Motel Incident"(邦訳版はなし)をもとに、彼の孫で画家のキャノン・ハーシーが事件の生存者に取材する形式。

ジョン・ハーシーは「アルジェ・モーテル事件の中にアメリカの人種差別のすべてがある」と考え、この事件に直接関わった人間だけでなく、社会の白人全員が共犯者なのだと書いています。

 

さらに、この本の中で特に注目すべきキーワードとして紹介されているのが、「社会の罠(social limbo)」・「差別の毒(poison of racial thinking)」とハーシーが名付けたアメリカ社会の構造的病理。

「社会の罠」は、アメリカの黒人は或る年齢で人生の分岐点を迎え、そこでいい波に乗れなかった人間はさまざまなトラブルに巻き込まれ悲惨な運命を辿ることになるという社会の図式。

アルジェ・モーテルで殺された1人オーブリーはまさにその典型だとハーシーは言います。

一方、「差別の毒」は、ごく普通の人間がいつの間にか差別意識にとらわれてしまう現象を指しています。

アルジェ・モーテル事件は、まさに「社会の罠」に落ちた黒人と「差別の毒」に冒された白人とが出会い、その結果起きた必然のヘイト・クライムだったということでしょうか。

 

事件当日の経過をじっくりと描いた『デトロイト』

(『スター・ウォーズ』のフィンも出演してます・・・ていうか、彼が主演でしたね。)

 

映画『デトロイト』では、冒頭で暴動に至るまでの歴史的経緯をイラストで説明し、実写映像は暴動勃発からスタートさせています。

街が暴徒で溢れていたさなかに起きたアルジェ・モーテルでの発砲。(実は発砲自体が誤認なんですが。)

市の警察官たちがモーテルになだれ込み、事件に発展します。


武器を持たない黒人たちを白人警官たちが銃で脅しながら詰問するこのシーンは、警官への嫌悪感と黒人たちの恐怖感を、緊迫感たっぷりに描いた名シーン。

感情移入するのは、当然のごとく黒人のほう。

壁に向かって立たされた状態で、差別意識ビンビンの白人警官たちに後ろから銃で脅される恐怖!

しかも、このシーンが壮絶に長いんです。

ただ、当事者の黒人たちが味わった恐怖の時間はそれ以上のもので、長さこそこのシーンのリアリティー。あの長さに対しては賛否両論あると思いますが、個人的には思い切ってじっくりと恐怖を描いたことが本作の真骨頂ではないかと思います。

 

とは言え、一刻も早く恐怖から解放してほしいという一心で、殆ど修業感覚で耐えた数十分。

モーテルのシーンが終わった時には心からホッとしました。

 

社会派ハリウッド映画の限界?

それにしても、リーダー格の警察官クラウス(ウィル・ポールター)の憎々しい表情ときたら!

彼の表情と黒人たちを見下した態度が、白人警察官たちへの憎悪をこれでもかと煽ってきます。

事件の真相はいまだに謎の部分が多いようなんですが、あの顔を見せられたらこの事件の諸悪の根源はクラウスだ!とジャッジしたくなります。

ウィル・ポールター、名演ですね。でも、それだけでなく、あの剃り込んだ眉の形が、軽薄で権威を笠に着たレイシストそのもの。

あきらかにクラウスはいわゆる悪役として描写されているんですよね。

 

このあたり、先に『デトロイト暴動 真実を求めて』の「白人全員が共犯者」というハーシーの言葉に触れていただけに、居合わせた警察官個人の資質が事件を引き起こしたかのようなクラウスの描写には疑問符。

まるでハリウッド映画を観ているような演出・・・って、まさにハリウッド映画だから仕方がないんですけど、社会問題に斬り込んだ作品としては浅い印象が否めない。

クラウスのキャラ付けは映画的にはとても面白いんですが、同時に、社会派作品としての本作の限界を感じてしまった部分でもあります。(現在上映中の『スリー・ビルボード』のほうがむしろ、ギアの入り方次第で普通の人間がとんだ暴挙に走る事実を描き出している気がします。)

せめてクラウスの生い立ちや家庭環境を描いて、彼の差別意識が形づくられた背景に「ごく普通の人々」で構成された白人社会があることを匂わせてほしかった。

「普通の人々」の中に事件の根っこがあるということを描かなければ、大多数の人にとって、自分とは無関係の話になってしまうのでは・・・

観る前に「映画にするとこんな感じになるんだろうな」と予想していた悪い予感は、残念ながら今回も的中していました。

 

黒人の怒りが生み出したブラック・ミュージック

ただ、事件の生き残りの1人に歌手(役名ではラリー。アルジー・スミス演)がいたことに着目し、脚色に生かした点は見事だなと。

wiki英語版(The Dramatics)によれば、彼がドラマティックスというグループの歌手だったこと、事件に巻き込まれた後グループを去ったことは事実なんですね。

事件で親友を殺され、白人のために歌うステージを去ったラリーが、教会の聖歌隊という職を得て歌い続ける姿には、黒人のやるせない怒り・哀しみが滲み出ているように見えました。

 

考えてみれば、ブルースも、ゴスペルも、ジャズも、ソウルも、アメリカで生まれたブラック・ミュージック。

黒人が運動能力と音楽の分野で突出した才能を示すことは誰もが認める事実ですが、単に能力の問題だけでなく、彼らの歌の原点には、社会への怒り・哀しみ・やるせなさがあるんだということを、ラリーを通じて思い知った気がします。

こういうのは、ドキュメンタリー番組にはない、映画ならではの感動ですね。

 

最後に・・・アルジェ・モーテルで殺されたラリーの親友のフレドは、映画の設定ではたぶんラリーが好きだったんでしょうか? 

なんとなくそんな流れになっていただけに、フレドの死はなんともせつないものでした。