◆「痛いのが好き」なイタい女の、痛々しい愛の顛末◆
前回の「白いリボン」で勢いづいて、ハネケ監督をもう一作。
2001年のカンヌ国際映画祭でグランプリ他を受賞した作品。ノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネクの同名小説(Die Klavierspielerin 1983年)が原作です。
主人公のエリカ(イザベル・ユペール)は、ウィーン国立音楽院でピアノの授業を受け持つ39歳のピアニスト。
音楽院の給料だけでは住宅ローンが支払えないため、個人レッスンのアルバイトもこなしています。
父親は精神を患って入院中、母親(アニー・ジラルド)と2人暮らしのエリカ。
この母親というのが、とにかく凄まじい。
本当に実の母親なのか疑いたくなるほど過干渉で嫉妬深く、ピアニストの娘が化粧やお洒落をすることさえ許さない異常さ・・・あんな母親がいたら恋愛のチャンスなんてことごとく潰されるに違いありません。
そのせいか、エリカの性的なストレスはかなり通常の女性の範疇を超えていて、ポルノショップ通いや、屋外セックスの覗きまで・・・なかなかの変態級。
そんな、かなりイタい彼女の前に現れた、ピアニストを志す美青年・ワルター(ブノワ・マジメル)・・・しかも、彼はエリカに真正面から熱烈にアプローチしてきます。
さながらエリカを母という牢獄から救ってくれるべく現れた白馬の王子のようなワルターの登場で、全てが良い方向に向かうように見えるのですが・・・
ポスターだけ見るとロマンチックで情熱的な愛の物語を想像しますが、これは確信犯的なミスリード。この映画に甘味成分はたったの一滴しか入っておらず、その一滴がこのポスターのシーンと言ってもいいかもしれません。
ただ、「ロマンチック」とは180度違う方向性とは言え、本作が「愛の物語」であることには変わりないかも・・・男女の愛だけでなく、それ以上に、母と娘の親子の愛。
それも、愛の負の側面がこれでもかというほど溢れ出た、イタい痛い愛。
愛のおぞましさに身震いします。
◆ヘンタイに見えたエリカが抱えていた、本当の性的問題◆
(エリカ(イザベル・ユペール))
エリカが風呂場で自分の局部をカミソリで傷つけ、生理を偽装するシーンは強烈。
おそらく日々のストレスから来る精神的なダメージのせいで、生理もないんでしょう。
エリカが生理を装う必要がある理由はただひとつ・・・母親が、39歳の彼女の毎月の生理まで管理しているから、としか考えられません。
このシーン一つにも、彼女の母の過干渉がどれだけ異常なものであるかが表れています。
しかし、問題は母親の側だけにあるのではなく、エリカの行動も異様。
生理がなくなったと母に言うよりは、カミソリで生理を作ったほうがいい・・・なんて、どこか壊れています。
後半になればなるほど、エリカの側も、母親の期待に応え、母に愛されたいという気持ちから逃れることができないのだということが明らかになってきます。
セックスをあれほど求めていたように見えたのに、いざ行為に及ぼうとすると拒絶反応を示す彼女。
これまで彼女がセックスを欲しながら男性と性的関係を持てないでいたのは、それが母親からの精神的な巣立ちにつながっているからかもしれません。
この異様なエリカと母の親子関係、どう表現すればいいんでしょう?
一種の共依存関係と呼ぶべきなのか・・・表現に困ります。
ただ、ここまで極端ではなくても、莫大な時間とお金を必要とし、親の協力が不可欠な音楽家という世界には、こうした親子関係、もしかすると少なくないのかもしれません。
特にこの親子の場合には、父親が精神疾患ということも、2人の距離を一層緊密にしているんでしょう。
◆マチズモ(男性優位主義)という要素◆
映画評論家の大場正明氏はこの映画をマチズモを切り口にしてまとめられています。(記事はこちら)
たしかにこの映画には(何故か)マチズモを仄めかすシーンがいくつも散りばめてあるのですが、個人的にはワルターとエリカがうまくいかない原因は、マチズモではなくエリカの(母親への依存という)精神的な問題にある気がしますし、マチズモという男女の溝があろうとなかろうと、ワルターは病巣を抱えたエリカを持て余したように見えます。
年上の女性との刺激的で甘美な恋愛を求めていた野心的なワルタ―――彼にとっては、自分の志すピアニストの道のはるか前を歩んでいるエリカは、男の征服欲をそそる存在だったんじゃないでしょうか―――には、エリカの抱える問題の解決に付き合う器はないし、彼が口にする「本当の愛」とは、相手の重すぎる人生をまるごと背負い込むことまでは想定していなかったように見えます。
エリカが母親に近親相姦(同性愛ですが)を求めるような行為をするのは、大場氏の言われるように男性になろうとしたということなのか?もよく分かりません。
個人的には、もし母親とセックスできれば、エリカの抱える問題は全て解決するからではないかと。
母が唯一エリカに与えられないもの=セックスさえ母とできるのであれば、エリカは性的ストレスを感じることもなくなるし、母親から巣立たないで済むわけで、そうなれば、2人の間の(かつエリカの中の)葛藤はもはや必要なくなるわけですから。
私には、この映画において、マチズモという要素は余ったパーツのように見えるのです。
もしかすると原作はマチズモを軸に構成されていたのかもしれませんが、映画版では、要素として散りばめられてはいるものの、結末に全く絡んでこない不思議なパーツなんですよね。
ついでに言えば、ワルターに投影されている「典型的な男性像」も、少し古い時代のそれに見えます。
この映画自体2001年の作品ですからもう15年前、原作は80年代と、さらに古くなります。
’80年代なら、妙にイニシアティブをとりたがる彼の姿は女性の共感を呼んだかも・・・ただ、今の一般的な男性像や男女関係と比べると、どうなんでしょう?
◆どこまでこの痛々しさに耐えられるか◆
濁った水槽に投げ込まれ、上から母親という重石を載せられてもがき続けているようなエリカの人生。
結末は、わりに早い段階から、もう見えています。
でも・・・そこからが長いんですねえ、この方の映画は。
「愛、アムール」も、
「十分分かったので、もうそろそろ勘弁してください・・・」
と言いたくなるほど、これでもかと辛いシーンが続きます。
DVDだと確実に早送りしたくなりますね。
物語がクライマックスに近付くほどに、暗澹たる気持ちが上塗りされていく―――そういう盛り上げ方がハネケの作風なのかもしれません。
中盤までは美しいクラシック音楽の音色に救われていたんですが、終盤はピアノ演奏シーンも減り、エリカを深く傷つけていくだけのセックスの試みが続ていくのが辛かった・・・
勿論、一番苦しんでいるのはエリカ。
ラストシーンで、彼女は漸く自分を母親から解放できた―――とも言えるんでしょうか。
皮膚の表面に固い殻を纏ったような、イザベル・ユペールの表情が印象的。
エリカの閉ざされた心がこわばった表情に表現されている・・・それでいて清楚な美しさに見惚れます。
ひっつめおだんごヘアがとても似合っていますよね。
当時まだ線が細い感じだったブノワ・マジメルの甘いマスクとのバランスも良くて、この2人なら、普通にベタ甘の恋愛ものも観てみたかった気がします。
それにしても、観終わった時、何かどっと消耗した感覚が残る映画でした。
すぐにもう一度観直したいという気持ちには、まあならないですね・・・
(ポスターはYAHOO!映画サイト、画像はIMDbに掲載されているものです。)