「エム・バタフライ」(M.Butterfly)~自らの東洋観に逆襲された西洋人の悲劇 | シネマの万華鏡

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◆驚愕の実話をベースにしたノワールなサスペンス◆

 

1993年のデヴィッド・クローネンバーグ監督作品。

中国系アメリカ人のデヴィッド・ヘンリー・ウォンの戯曲を映画化したもので、舞台劇のほうはトニー賞を受賞しているそうです。

日本版は残念ながらDVD化されていませんが、Amazonビデオ・プライムなどで視聴できます。

 

(日本語字幕付き予告編がなかったので、英語版予告編・・・感じだけでも。)

 

物語の舞台は1960年代、東西冷戦下の中国。

中国駐在のフランスの外交官ルネ・ガリマール(ジェレミー・アイアンズ)は京劇スターのソン・リリンと恋に落ち、妻を裏切って彼女との間に子供ももうけます。

その後フランスに帰国したガリマールを追って、ソンも渡仏。2人は一緒に暮らし始めますが、子供の身柄は中国政府に押さえられており、中国からの要請に屈したガリマールはフランスの機密情報を中国側に流すことに。

やがてガリマールのスパイ行為は当局の知るところとなり、ソン・リリンともども逮捕されてしまいますが、公判の席に現れたソン・リリンは、なんと男の姿。

愛し合い、子供までもうけた女が実は男だった?

衝撃の事実の中に見えてくるものは―――

 

時佩璞(日本語読み:じ・はいはく)なる中国の京劇スターにしてスパイでもあった男と、彼を女性と信じて結婚し長年共に暮らしていたフランス人(大使館の会計係)の実話にヒントを得た作品。

男女両面の顔を持つソン・リリンを、1987年「ラストエンペラー」で主人公愛新覚羅溥儀を演じて一躍世界的スターとなったジョン・ローンが演じています。

 

◆ルネ・ガリマールとソン・リリンの恋の顛末という側面◆

 

実話をベースにしていることが一つの売りになっている本作。

ただ、事実をなぞるのではなく、この事件を2つの側面から捉え直して再構成したところに、むしろこの作品の他にはない面白さがある気がします。

2つの側面とは、一つにはルネ・ガリマールとソン・リリンの偽りの愛の顛末という側面。

そしてもうひとつは、この事件を「マダム・バタフライ」の物語に重ね合わせることによって、西洋人の東洋観(オリエンタリズム)の本質を暴いた物語であるという側面。

特に後者は、社会学的な要素も含んだ非常に鋭い視点からの考察で、個人的には本作の白眉だと思いますね。

 

もっとも、映画版に関しては、原作に比べて相対的に前者・つまりラブ・ロマンスの色彩が濃いのかもしれません。

舞台劇のほうではアンソニー・ホプキンズ(※1)等が演じたという、モテない男ガリマール役を、本作ではクローネンバーグ監督御用達の二枚目俳優ジェレミー・アイアンズが演じている時点で、ラブ・ロマンスの要素が一層引き立つことは必然なわけですが・・・

独特のクセの強さが魅力のクローネンバーグ作品の中で、本作は独自色が薄い作品だけに、個人的にはこのザ・クローネンバーグ的なキャスティングは嬉しい限り。

「戦慄の絆」ほどエキセントリックではないものの、何不自由ない男が彼に内在するほんの僅かなひずみを突かれ、恐ろしい速度で自滅に向かう物語は、ノワールの雰囲気を纏ったジェレミー・アイアンズにうってつけです。

 

一方、相手役のジョン・ローン。

本作公開当時すで41歳だったとは思えない凛とした美しさは溜息ものですね。

ただ、惜しむらくは、彼の美しさはあくまでも男性としてのものだということ・・・骨格のしっかりした体型だけに、「女性と見紛う美しさ」というのとは異質で、女装のソン・リリン登場シーンは終始落ち着かない気分だった・・・というのが正直なところです。

そんなわけで、終盤ガリマールとソン・リリンがスパイ容疑で捕まり、ソンがネクタイをしめたスーツ姿で法廷に現れた時には、何かほっとしたような気持ちになりました。

 

とはいえ、終盤のジョン・ローンの巻き返しがハンパなかったのも偽らざる事実。

ソンの本来の性別が明らかになって以降のほうがむしろ、堰を切ったように恋愛劇としての側面が濃厚に。

両性具有の心を持つソン・リリンを演じるジョン・ローンの「本気の女子力」の凄まじさに、終始圧倒されっぱなしでした。

 

最も印象的だったのは、公判で初めて男同士として顔を合わせた後、護送車の中で2人が対峙するシーン。

見知らぬ男に変貌したソン・リリンを、おぞましいものを見るような眼で凝視するガリマールに、ソンが投げかけた言葉は、

”Come here, my little one."

 

(”Come here, my little one."とガリマールを誘うソン・リリン。字幕では「来て」と訳されていますが、どちらかというと「来いよ」なのかなという気がします。敢えてガリマールを”my little one"と呼んだのは、男同士の恋人としてやり直したい、というソンなりの想いがあったからなのかも・・・・)

 

バタフライなら、決してガリマールに"little one"とは言わない・・・これは、男に戻ったソン・リリンからガリマールへの、初めての(少し屈折した)愛の告白なんですよね。

意外にも、彼はどうやら本心からガリマールを愛している・・・そして、ガリマールの心を試そうとしている。

確信と不安、愛情、媚態・・・さまざまの想いを滲ませたソン・リリンの表情にゾクゾクさせられます。

 

ソン・リリンが、ガリマールは自分が男であることに気づいているのかもしれない(そうであってほしい)と思っていたことは、彼の公判での発言にも仄めかされています。

そして彼は、たとえ男の姿に戻ってもガリマールは自分を愛してくれることを、半ば確信していたようです。

しかし現実は、ガリマールにとってそうであったのと同様に、ソンにとっても残酷なものでした。

ガリマールはソンの本当の姿に全く気付いていなかったし、素顔のソンを頑なに受け容れようとはしなかった―――

ガリマールがソンの上に見ていたものは、従順でか弱い、西洋人の幻想の中の東洋女性=バタフライであって、どんなに長く一緒に暮らしていようと、男の姿をしたソンは、彼の愛した妻とは別人でしかなかったのです。

 

◆自分自身の東洋観に逆襲された愚かな西洋男は、自らの幻と心中する◆

 

何故ガリマールは、長年一緒に暮らした彼のバタフライことソン・リリンが男であることに気づかなかったのか―――

それはガリマールが、西洋人にとって都合のいいバイアスのかかった東洋観で、終始東洋女性(その一人であるソン・リリン)を見ていたから。

 

ベトナム戦争の見通しに関するガリマールの的外れな意見にも示されている通り、彼は東洋を理解しようとはせず、西洋人が東洋に対して抱いてきたステレオタイプなイメージで判断しているだけ。

東洋人は西洋人に憧れ、従うもの・・・彼はそう信じて疑わない男でした。

そしてその西洋と東洋の関係性は、マダム・バタフライの物語の中での、ピンカートンと蝶々夫人の関係にピタリと重なり合います。

ソン・リリンは彼の幻想にこれ以上なく適う存在だったからこそ、ガリマールは「彼女」を愛したし、少しばかり奇妙な部分があっても、自分の幻想の殻を出ようとはしなかったのです。

「彼女」は彼にとって、あまりに都合が良く、居心地の良いバタフライだったから―――

 

ラストシーンでガリマールがマダム・バラフライに扮してひとしきり一人芝居をした後命を絶つシーンは、「自分自身の東洋観が作り上げた幻の東洋女性に手ひどく裏切られた哀れな西洋男(ガリマールという個人ではなくここでは集合体としての西洋人という含みがあります)」に対する、原作者からの死刑宣告と見ていいでしょう。

そんな男は自分の幻想と心中せよ―――恥を重んじる東洋女性マダム・バタフライが、愛した男に捨てられて死を選んだように、幻の女に裏切られたガリマールもそうするべきだと。

ガリマールのモデルになった男性は自殺などおそらく考えもしなかったであろうだけに、ガリマール個人ではなく集合体としての西洋男を糾弾した話とはいえ、何とも手厳しい締めくくりに思えます。

世界に名だたるマダム・バタフライを生んだのは日本。

日本人なら、この物語をどう締めくくったでしょうか。

 

「愛した男はろくでなし

目をくれる価値もない男だった

なのに―――与えてしまった―――すべての愛を」

蝶々夫人に扮したガリマールのモノローグに重ねて、中国へ送還されていくソン・リリンの姿が映し出されるのは、映画版独自の演出。

映画版では、自身の東洋観に逆襲された男の愚かさよりも、2人の愛の無残な終焉と、まだどこかに残っているソン・リリンのガリマールへの愛が、深く余韻に残ります。

原作の切れ味の鋭さは薄まった感がありますが、どこにも救いのない愛の切なさは、映画版のほうが巧妙に表現されていた気がします。

ジョン・ローンが思いのほか演技派だったことに驚かされた作品でもありました。

 

 

 

※1 映画パンフレット(発行:シネマスクエアとうきゅう 発行年月:1994年4月23日)