佐伯米子の「かなしみのパリ」から… | マダム侑加のロハスライフ

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佐伯米子といってもピンとくる人は殆どいまい…
佐伯祐三すら知る人がいなくなってきた時代だ…
日本という国は文化とは遠くただの成金国家でしかなくなって…しょぼん






佐伯米子が夫祐三と共に彼の兄をマルセイユに出迎えるために立ち寄ったアルルで
ゴッホの描いた“アルルのはね橋”の辺りを彼ら夫婦もスケッチしたとある…


昨夜に重複するが、その水彩画スケッチをサロンに出展したところ初入選した訳だ
私はその水彩画スケッチをどうにかして見ることが出来ないかと今日も朝から検索したがしょぼん


相対立したブログを見つけた
作品もオークションに出展の二点を…、しかし米子の没後100年経過していないから版権が~


肝心のアルルでのスケッチ画は見つけることが出来なかった故アップゴッホのはね橋を~
この“アルルのはね橋”見たことがあるな~、と思ったらダウンクレイラーミューラー美術館で!






この美術館は生涯忘れることが出来ない美術館だ
オランダにゴッホを集中して見てまわったとき立ち寄りダウン“夜のカフェレストラン”を見た






その後まさかゴッホの手紙を日本で初めて翻訳した硲伊之助氏の奥さんと出会うとは!
コートダジュールに住んでいたアデリア硲と出逢いカジノで遊んだ記憶が懐かしい


マチスやピカソのモデルをしていたマダム・硲は
パリで佐伯祐三とも出逢っていたのではないだろうか…


佐伯祐三がマチスのことを「マチスはいい…」とパリ滞在の初期の頃に言っている…
里見旨次先生が私に当時「僕が話すことは一つの時代の最後なんだよ」と言われたこと


それに気づかず何と長い間無為な日々を過ごしてきたことか!
藤田嗣治 が乳泊にプレパレーションされたキャンバスに日本の面相筆で線描していたこと


その面相筆は東京神田の何とか言う筆の専門店の名前まで教えて下さっていたのに~
何故なら先生が日本に帰国するときにまとめて購入してくるよう頼まれていたからとか…


私がもっと多くの知識を持っていたらたくさんの疑問が湧き、質問をしていただろうに…
今になって思う、なんと大切な時間を無駄にしてきたことかと



藤島武二画伯は佐伯祐三の芸大時代の師だった
小出楢重画伯は里見先生に、芸大など行っても通用しないからとパリ行きを勧めたと聞く


それで里見先生が日本人で初のパリ・グランド・ボザール入学そしてディプロマ獲得卒業生
そこら辺の話は直接先生から聞かされていた…


藤田嗣治 が佐伯祐三に声をかけたクーポール…
真面目な佐伯祐三は自分の死期の予測をしていただろうし米子への背徳行為は出来なかった?


米子の手記“かなしみのパリ”によると、佐伯はゴッホの影響を多分に受けていたと…
皮肉なことですね、晩年彼も精神病院の囚われ人となるなんて…


その文によれば夏の旅行の前とあるから
パリが百花繚乱の花に溢れ輝く季節6月か7月?




…そうして、このような苦しみの中にも、時は足早に過ぎて行きました。
目を上げればあたり一面、美しい花々が咲き乱れ小鳥がさえずる、楽しい季節でした。
しかし、病児を抱え、気の狂った夫をたずねていく行く私には、その美しさがどんなに、悲しくむなしいものに感じられたことでしょう…

…まだ五歳の、あの無邪気だった幼子は、母ひとりを残して父の後を追っていったのでございます。
パンテオン寺院の白い建物が闇にすかして見え、その左側に大きな星が一つ輝いている静かな夜でした…



                                 婦人の友より抜粋



パンテオン…
ソルボンヌに近く学生街のような街、そこに小さなホテルの部屋をとっていた米子


パリは喜怒哀楽を受け入れ、そこから再び翔びたつエネルギーを充電する街?
画家の魂をとらえて放さない街でもあるけれど…







今のEU連合となったパリにかつての街の良さがあるのだろうか?
ヨーロッパは、中東アラブとの関係等々緊張が高まっていますが…





パリの日本人学校アップに通う児童たちは心配ですね~、私が訪ねた時節分だったようです
グローバル化の結果…、安心と水に高いリスクを伴う…、どうしたらいいのでしょうね~


一昔前…
夢や希望に燃えてヨーロッパ大陸を目指した人たちは経済より文化の吸収だった



せっかく、結核を制覇できる時代になったのに…
ねっ…