壁の向こうは不思議の国だった。
世の中には摩訶不思議な事が多数存在するもので、僕らは知ってるようで何も知っていない。それはムー大陸の存在やアトランティスの謎、マチュピチュにナスカの地上絵、アンティキティラ島の機械に代表されるオーパーツの存在など様々だが、それらのように一見して「俺、不思議」といった顔をしている物に限ったことではない。
実は「不思議」ってやつはごくごく身近に存在する。自分の一番近くにいる人間を思い返してみるといい。同僚だろうが親友だろうが恋人だろうが配偶者だろうが、とにかく身近な人を思い浮かべよう。アナタはその人についてどれだけのことを知っているだろうか。
例えその人のことを十分に分かっていると思ったとしても、おそらくそれは分かった気分になっているだけなのだと思う。誤解を承知で言ってのけると、人は人のを絶対に理解しない。それは人が意識を持ち始めた古代から連綿と続く不文律なのだ。僕らは一人の人間すら理解できずに不思議な存在にしてしまうのだ。
澄ました顔で仕事をしている彼だって、コンビニで快楽天というエロ本を買おうとして間違えて失楽天というエロ本を買ってしまい、大人気なく取り替えてくださいとコンビニまで押しかけたかもしれない。職場で涼しい顔して仕事している彼も、同僚の女性社員が深夜の歓楽街に佇んでいるのを目撃してしまい、もしかして彼女はお金に困って売春婦のようなことをしているのではないかと勝手に妄想を膨らませてしまい、親身になって相談に乗ったりしたら一回くらいは無料でいかせてくれるかもしれないと勝手に思い込み、その彼女に「病気のリスクとか怖くないのか」みたいな話をしたら、どうやら勘違いだったみたいで、あれは高校のときの同窓会で友達を待ってただけですみたいな話になって気持ち悪いと揶揄される、むしろ語感としてはキモチワルイみたいな感じで言われてしまったりとか、誰しもがその表の顔と違う側面を持っているものだ。クソッ!
他人のこと全てなんて絶対に分かりっこないし、分かって欲しくもない。それなのに分かった風に過ごしていく、それが人間なのだと思う。その際たるものが「壁」という存在なのだろう。
「壁」というものは実に不思議だ。よくよく考えてみると、これほど不思議な存在はそうそうない。同じ場所、同じ敷地、同じ建物にあってもそこに「壁」が存在するだけで全く別の空間が出来上がってしまうのだ。そして、その仕切られた空間に人間が入ることにより、その中ではよりミステリアスさが増すことになる。中で誰かが何かをしていても分からない、向こうを知るには覗き込むという行為が必要になるのだ。「壁」とはよく「心の壁」という表現で用いられることもある。他者にたいして心を開かない様子などを表現するものだが、それらはミステリアスさを増幅させるのに一役買っている。
つまり、「壁」とはただでさえ不思議である人間をより不思議にさせるために役立っているのだ。前述のオーパーツなんて目じゃない。実は身近に存在する「壁」こそが最も不思議で理解不能な存在なのだ。
子供の頃だった。我が家は信じられないくらい「昭和」という香りがするボロ屋で、未だに建てかえることなく存在しているのだけど、そのボロ屋に壁が取り付けられることになった。
もちろん、もとから家に壁がなかったわけじゃなく、普通に隙間風とか入ってくるボロボロの壁は存在していたのだけど、それとは別に、新たに壁を取り付けることになったのだ。
当時は、二階にあった縦長の部屋を僕と弟が共同で使っていたのだけど、弟が高校受験を迎え、本気で勉強しなくてはならない、ならばあのバカ兄貴、つまり僕は邪魔だということが家族会議の席で満場一致で採択されたらしい。議案を提出したのは弟だった。寺とかに出家させようかとか、できれば鑑別所か少年院にでも入ってくれればいいのにだとか過激な意見も出されたらしい。
こうして、縦長だった部屋を仕切るかのように突如として中央に壁が設置された。壁によって僕と弟を隔離することに落ち着いたのだ。さっきまで弟と一緒だった部屋。けれども今は違う。ただ壁が一枚存在するだけでその向こう側は全くの別世界になってしまったのだった。
僕は悩んだ。悩みぬいた。壁の向こうで弟が何をしてるのか分からない。全く分からない世界なのだ。まさか弟が間違ったオナニーでもしてペニスを痛めつけているかもしれない。本気で悩んだ。ガタッと壁の向こうから物音がする度、気が気じゃなかった。オナニーの解釈を間違って、ペニスを鍛えるものだと勘違いした弟が熱湯と冷水交互にペニスをつけてるかもしれないと思うと気が変になりそうだった。ただ「壁」があるだけでここまで弟という存在がミステリアスになるのだ。
本気で当時の僕は「壁」という存在に、その物質以上の壁を感じて悩んでいた。世の中ってのは薄情なもので、こんなに僕が壁に悩んでいるのに、「どうよ、これでちったあラクになったかよ?」と壁をハンマーで破壊してくれるGTOも存在しなかった。悩みに悩んだ僕は壁に穴を開けるという選択肢を選んだ。もうそうするしかなかったのだ。
設置されたばかりの真新しい壁に穴を開けた。親父が仕事で使っていたハンドドリルを拝借し、10ミリほどの穴を開けた。僕はその穴から弟の部屋を覗き見た。弟はオナニーしていた。オナニーの解釈は間違っていなかった。弟にばれた。心を乱した弟は高校受験に失敗した。親父にもばれた。弟の邪魔したことと新品の壁に穴を開けた事がばれた。殺されそうになった。本気で出家させられそうになった。
とまあ、「壁」という存在に思春期の僕は大変悩まされたわけだ。そして、時空を超え、今32歳となった今の僕も同様にして「壁」という存在に悩まされる。
賢明な閲覧者の方ならご存知かと思うけれども、僕はこの夏、住み慣れた住処を離れて引っ越しを行った。その物件は恐ろしく、2LDKという破格の広さにもかかわらず激安家賃。そのかわり何か人智を超えた霊的現象が起こるとんでもアニマルな物件だ。
そういった超常現象的側面だけでなく、住んでる人間もとんでもアニマルで恐ろしい。僕の部屋の真上の階なんて、どうやら家族連れが住んでいるようなのだけど、なんか虐待でもされてるんじゃないかってレベルで子供の泣き声がする。安普請で音が響きまくり、上の階で人が歩くだけですごい音がする我がアパートで子供の泣き声はかなりのうるささだ。さらに、その住人は、毎日模様替えでもしてるんじゃないかしらというレベルでドスンバスンと家具類が動く音がしまくる。それも深夜に。もはや安眠妨害とかのレベルを軽々とK点越えしてやがる。
そんな上の階の住人はどうでもいいとして、問題は隣の部屋の住人だ。我が部屋と1枚壁を隔てただけの隣人だ。こいつがとにかく謎でミステリアス。本当に恐ろしいのだ。
確か、僕がこの部屋の下見に来たときは、なんか全身クリトリスというか和製フィリピーナみたいなセクシャルな女性が住んでいたはずなんですけど、実際に住んでみるとセクシャルどころか人間が住んでいる気配すら感じられない。前述の通り音なんて筒抜けのアパートのはずなのに、隣の部屋から物音一つ聞こえてこないんです。
まあ、最初こそは引っ越したか何かで空き部屋になったんだろうな、くらいに考えていました。けれどもね、何かがおかしいんです。明らかにおかしいんです。何の気配も感じられず、人が住んでいないと考えられる壁の向こうの隣の部屋。けれども、それは見せかけの存在、かりそめの空き部屋だったのです。
あれは、結構面倒くさかったので仕事をズル休みして、悪質なインフルエンザにかかって意識朦朧、と嘘ついて昼真っから家でゴロゴロしながらNHK教育テレビを見ていたときのことでした。
ゴトッ!
確かに、間違いなく、空き部屋と思われた隣の部屋から物音がしたのです。そして、それと同時に人間の息遣いというか、話し声のようなものがゴニョゴニョと聞こえてくるではないですか。
まさか、隣の部屋に入居者が?一瞬そう考えましたが、それならばもっと生活の痕跡みたいなものが感じられてもおかしくありません。急いで表に出てチロチロと隣の部屋を覗き見てみるのですが、通りに面した窓はシャッターが閉められており、明らかに人が住んでいる息遣いが感じられない。
もしかして、ずっと空き部屋だと思っていた隣の部屋だったけど、実は最初から空き部屋ではなかったんじゃないだろうか。けれども、何らかの理由で平日の昼間しか部屋を使わず、それ以降の時間は無人になる、そんな理由で平日の昼間は仕事に行ってる僕は気付かなかったんじゃなかろうか。
では、一体、壁の向こうでは何が行われているのだろうか。僕は途端に気になり始めた。本当に壁という存在は忌々しい。こんな壁があるからその向こうが気になるのだ。例えば、女の人が服を着る習慣がなくておっぱい丸出しだったら僕らはそんなにおっぱいを見たいとは思わない。それと同じで壁があるからこそその向こうを覗き見たくなってしまうのだ。
まあ、いくら気になるからといって本気で覗いてしまったらお縄を頂戴する羽目になってしまうので、なんとか隣の部屋を注意深く観察することでその真相に近付こうとした。
その日、注意深く観察した僕の調査結果によると、隣の部屋では以下のようなことが執り行われている事がわかった。一つ目に、隣の部屋には複数の男がおり、終始なにかを話していた。人の出入りが激しく、何人かが出入りを繰り返していた。駐車場に、とてもじゃないがカタギが乗るとは思えない車が数台停まっていた。お昼には近くのラーメン屋で出前を取っていた。午後3時になると全員が引き上げてしまい、その後は物音一つしない完全なる無人状態となった。
皆さんは、この壁の向こうで何が行なわれていたか分かるだろうか。ポイントとしては午後3時に無人になる、という点が最も正解に近い。この時間にその日の動きが終わる何かがあるわけだ。それを踏まえて回答編を見てみよう。
その夜、完全に無人となった隣の部屋の周囲を探索してみた。何で今まで気づかなかったか分からないが、アパート裏手の窓、ウチと間取りが同じならばバスルームにあたる場所の窓の下には、これでもかというレベルでタバコの吸殻が捨ててあった。もうその吸殻が大量すぎてアリ塚みたいになってた。おそらく、相当マナーの悪い人間が何かをやっているらしい。
その吸殻の山を分析してみると、複数、少なくとも6種類以上の銘柄のタバコが混在しており、やはり複数の人間がこの部屋に出入りしている事が裏付けられた。
さらに、構造的に僕は隣の部屋の玄関前を通らずに日々の生活をしていたため見ることはなかったが、そっと近付いて見てみると、玄関には何やら表札みたいなものが二つドアのところに貼り付けられていた。こういった人の家の表札を見ることにはあまり良い思い出がなく、前のアパートに住んでいたときに面白半分で見てみたら表札に「アラー」とか何のためらいもなく書いてあって神々が住んでる!と心の底から震えた僕にとって、あまり乗り気ではなかったのだけど、壁の向こうの謎を解明するため、そっと近付いて覗いてみた。
一つは、「訪問販売お断り!」と断固たる決意が書かれたプレートだった。「訪問販売」という部分が赤字で書かれており、その意志の強さが存分に感じられるものだった。
そして、もう一つのプレートにはこう書かれていた。
「有)アツシプランニング」
アツシが何をプランニングしてるのか知らないけど、壁の向こうは会社組織であることを誇示するプレートだった。なるほど、それならば多数の人間の出入りや、昼間だけで夜は無人になることも納得できる。
おぼろげながら壁の向こうの実態は分かったものの、それでも新たな謎が浮上した。それは、いったいこの会社組織でアツシが何をプランニングしているかという疑問だ。昼間だけしか活動せず、さらにとてもじゃないが真っ当な会社員とは思えないお下品な車が出入りする会社組織。考えれば考えるほど謎だった。
もう謎が謎を呼んでしまい、悩みに悩みぬいてどうしようもない状態。壁の向こうでアツシが何をプランニングしてるのか。悩みすぎて胃が痛くなるほどだった。僕がこんなに悩んでいても世の中ってのは冷たいもので、「どうよ、これでちったあラクになったかよ?」と壁をハンマーで破壊してくれるGTOも存在しない。自分の力で謎を解き明かすしかないと決意した。
どうしても、本当に本当に仕方なく、決して仕事が面倒だったとかそんなお話ではなく、これは使命だ。僕に与えられた使命なのだ、壁の向こうの謎を解き明かせと神が与えたもうた使命なのだ、と大いなる意志を感じ取り、本当はそういうことしたくなかたのだけど、仕方無しにインフルエンザが悪化したことにして次の日も仕事を休んだ。朝から落ち着いて謎の解明にあたるためだ。決してズル休みではない。
早朝、ゴミ袋を手にごみ出し住人を装って問題の部屋を見張る。アツシプランニングの連中が何時に出勤してくるか分からないけど、なんとか人の出入りを瞬間を抑えようと試みた。
朝10時。この周辺では8時までにゴミ出しをしなければならないのだけど、いい加減、この時間までゴミ袋手にウロウロと徘徊するのは苦しくなってきた。っていうか、出勤してくるの遅すぎるだろ、どんな会社だよ。
10時半。黒塗りの高級セダンがご到着。前日に見た明らかにカタギが乗るものではないお下劣な車だ。駐車場に入る時の段差で車の底を擦ってた。シャコタンブギすぎる。ついにいよいよ、謎のベールに包まれた壁の向こうの謎が解明される。僕の胸は躍った。そしてついに重厚な、黒塗りセダンのドアが開く。
果たして、そこには予想通りのパンチパーマがいた。パンチパーマはシャコタンブギで車体を擦ってしまったことに不機嫌な様子で、朝っぱらから恐ろしい形相であった。その禍々しきオーラだけで小動物くらいなら殺せそうな殺意の波動を身に纏っていた。
そしてそのままパンチパーマは鍵を開けて問題の部屋に入っていく。鍵を開けるという行為からもパンチパーマがアツシプランニングの代表者であり、おそらくアツシという名前であることは想像できた。
それから程なくして、続々と車が到着し、まるでそうすることが当然のように次々と他の住人の駐車スペースにお下劣なシャコタンブギみたいな車が停車されていく。それらは全てアツシプランニングへと吸い込まれていった。
さて、こうなると壁の向こうの謎はほぼ解明された。壁の向こうでは恐ろしげな男どもが集い、何かを行なっているということだ。当然のことながら、次は何が行なわれているのかが気になる。つまりアツシがプランニングしている内容が気になるのだ。
僕は物音を立てないように細心の注意を払って自分の部屋へと舞い戻った。この壁の向こうであの恐ろしげな男たちが何かをいたしている。それは深入りしていけない何かを感じる反面、やはり好奇心を抑えることは出来なかった。僕は、壁に耳を当て、詳細に壁の向こうの様子を窺った。
「・・・・・・・」
何か声が聞こえる。誰かが何かを話している口調だ。いや、それは怒号に近かった。どう好意的に解釈しても穏やかに話し合いといった雰囲気ではなかった。ドキドキしつつもさらに聞き耳を立てる。
「・・・・・バカヤロウ!」
それは誰かが誰かを怒鳴っている声だった。それもかなりドスのピリリと効いた恐ろしい怒号であった。
あわわわわ、と焦ると同時に、もしかしたらテレビの音声かもしれない、とい急いで自分の部屋のテレビをつけてチャンネルを回したが、平日の午前中、怒鳴るような番組はやっていない。普通にメタボ解消食生活!とか平和すぎる番組ばかりやっていた。
怒鳴る事がアツシなりのプランニングかとも思ったが、そんなものありえるはずがない、こりゃとんでもないことかも知れないとさらに聞き耳を立てると、とんでもない音声が聞こえてきた。
「・・・・・50万円払え!」
明らかに誰かが誰かに金を請求してやがる。それも50万円という巨額だ。普通に昔の同級生の家とか遊びに行ったらカワイイ娘さんがいて、100円あげるからオジさんの肩揉んでくれないかなーとか言おうものなら、多分ほとんどの娘っこが揉んでくれるだろう。そうなると、100円で、いたいけない少女に肩を揉んでもらい、色々とハプニングが起こる可能性がある。つまり、幼女とのハプニングが100円だ。50万円もあれば5000回ほどそんなハプニングが期待される。これはもう世界が粉々に砕け散ってもおかしくないレベルの事態だ。
そんな大金を、誰かに請求することなんて、普通の日常生活を営んでいればありえない。せいぜい、飲み会の時に会費3000円ですとか徴収するくらいだ。会費50万円です、なんて言われたら参加せずに帰る。つまり、通常の神経をしていたら50万円なんて金を他人の請求することなんてないし、ましてや怒号混じりに要求することなんてほとんどない。
あまりの巨額に目を回していると、さらに壁の向こうからは、そういった類の怒号がアンサンブルのように何重も重なって聞こえてくることに気がついた。つまり、壁の向こうでは怒号と共に何らかの請求行為が行なわれている。
これら全てを総合して分かった。おそらく壁の向こうでは何らかの悪徳な商売が営まれている。それこそ、架空請求だとかオレオレ詐欺だとか、そういった悪質な何かが行なわれているのだ。アツシ、とんでもねえものプランニングしてやがるな。
僕も色々と悪徳な業者と戦ったりしてきたけど、まさか隣の部屋に悪徳な業者が住んでるとは思わなかった。こりゃあ、一体全体どうしたらいいのだろうか。悪徳業者許さんと海パンはいてキン肉マンのように乗り込んで入ったら多分殺されるだろう。意味もなくハンマーで壁をぶち壊し、「どうよ、これでちったあラクになったかよ?」とGTOのようにアツシに言っても殺されるだろう。そもそも意味が分からない。警察に通報、というのが一番の選択肢だろうが、普通に業務を遂行している会社だったりしたら間違いでしたでは済まされない。
どうしていいか途方に暮れていると、その時、歴史が動いた。
ピンポーン!
玄関のチャイムが鳴ったのだ。あまりの驚きにヒィ!ってなってしまった。恐る恐る、なぜか足音を立てないように注意して玄関に行き、ドアスコープから覗き見る。
アツシが立っていた。
思わずドアの前で「ヒィ!」と唸ってしまった。あのアツシプランニング代表のアツシが燦然とパンチパーマを輝かせて立っていた。やつは平然と他者に50万円を要求する剛の者。そいつが何故僕の部屋の前に?まさか部屋が狭いからという理由でウチとの境界の壁をハンマーでぶち壊し、「どうよ、これでちったあ広くなったかよ?」とこれからはウチも悪徳商売の本拠地として使われるのかもしれない。それよりなにより、一番可能性が高いのは理不尽に金を要求されることだ。下手したら何やかんや理由をつけて50万円くらい要求されるかもしれない。ヤツは平然と他人に50万円を要求する頭のおかしい人間だ。
ピンポーン!
まるで僕を急かすように再度玄関のチャイムが鳴る。あれこれ悩むと同時に今までの思い出が走馬灯のように駆け巡る。真新しい壁に穴を開けたこと。弟の部屋を覗き見たこと。弟が高校受験に失敗した日のこと。怒りのアフガンと化した親父に殺されかけたこと、全てがセピア色で美しい思い出だった。
どうするべきか。警察に通報するべきか。いやいや、それはおかしい。現時点で彼はウチを訪ねてきただけなのだ。あれほどの剛の者だ。警察が来たって「家を訪ねただけっすよ」とシレッと切り抜けるに決まってる。何の目的できたのかは知らないけど、警察に通報するのは金を要求されてからだ。被害に遭わなきゃ誰も助けてはくれない、そんな世の中なのだ。
金を要求するならしやがれ。
意を決してドアを開けた。そして、予想だにしない運命が僕に襲い掛かるのだった。
「こんにちはー」
満面のスマイルで語りかけるパンチパーマ、アツシ。悪徳業者とはいつもこうだ。最初こそは人当たりの良い笑顔で迫ってくる。けれども、それは事実を覆い隠す「壁」に過ぎない。その壁の向こうでは恐ろしい悪魔のような顔が待ち構えているのだ。
「な、なんでしょうか」
ビクビクと返答する。理不尽な金の要求、部屋の壁を取り壊すのかもしれない、ただ殴るだけかもしれない、小動物のようにビクビクとしていると、ついにアツシが動き出した。
「これ、引っ越しの挨拶の品です。隣に越してきまして、よろしくお願いします」
と、箱に入った粗品を手渡してきた。
「いやー、何回か来たんですけど、いつも留守みたいで。今日は車が停まってるから大丈夫かと思いまして」
アツシは柔らかい笑顔でそういった。気が動転してしまった僕は、その粗品を受け取りつつも
「む、無料ですか?」
とか訳の分からないことをのたまっていた。
結局、壁の向こうで何が起こっているのかは分からなかった。ただ一つだけ言えることは、アツシは結構良いヤツということだけだった。粗品の中身はミッフィーお散歩タオルセットだった。けっこう可愛いじゃねえか。
壁の向こう、その先では何が起こっているのか分からない。怒号が聞こえ、50万円を請求する声が聞こえてくる。それでもそこで悪徳な商売が営まれているかなんて誰にも分からないのだ。
壁が存在することで、僕らはその先を知りたくなる。穴も開けたくなる。けれども、知らない方が良いことはこの世に沢山あるのだ。とにかく、アツシは結構良いヤツなので、悪徳な商売を営んでいないことを祈るばかりだ。
ふう、アツシは結構良いヤツだった。そりゃそうだ。この、世の中そんなに捨てたものじゃない。平然と50万要求できるような悪人なんてそんなにはいないのだ。そんな頭のおかしい人間は、この世で一握りの選ばれし者なのだ。そうそうお目にかかれるわけではない。いるわけがない!とホッと胸を撫で下ろしていると、携帯電話に着信が入った。
親父からだった。電話に出ると親父はこういった。
「この、間ウチをリフォームしてな!お前が壊した壁とかも全部直したわ!だからリフォーム代で50万円、お前が負担しろよ!」
ここにいた。
親父の理不尽な要求に本当に熱が出た僕は次の日も仕事を休み。布団で眠りながら、親父とは心の壁を隔てて接しようと心に誓ったのだった。