秦氏と斐川町 | 源行近のブログ

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山陰の戦国時代を郷土史レベルで研究しています。主に人物や城跡が中心です。

最近は山城を取り上げていませんが、どこかで再開したいと思います。

さて、都牟自神社の南に明治時代イザナギ、イザナミというかわった字名がありました。今は十六夜という自治会名がありますが、この近辺に畑屋敷という屋号があり、秦氏とつながりがありそうな場所です。この地区は三浦氏(多々良系)の高田姓と有田氏(赤松多々良系)有田姓が点在している事から和歌山県との熊野信仰や王子信仰の接点があると思われます。さらに現在の国道9号線から南の上庄原には田波という地区があり、この付近には糸賀姓、和田守姓が点在しています。糸賀は和歌山県有田市糸我町が発祥地と思われ、和田守(和田森)は和田=ハダ(秦氏)の森からきていると考えられます。ですからこの田波(タナミ)は波田(ハタ)が戦前の右読みのまま残された可能性も考えられるのではないかと。。。

田波より東には諏訪神社や御射山、その南には荒神谷遺跡が控えています。

都牟自神社の東北に應(オオ)神社があるようです。この社は本来は王子社で誤って應神社とされたというのですが、この地区は応神であり応神天皇と同じなので、やはり秦氏と繋がりが深いと考えらます。全体を通してみると秦氏と出雲と紀伊との接点がみえてくるので、もっと調べてみようと思います。