吉栗山登山にチャレンジ | 源行近のブログ

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山陰の戦国時代を郷土史レベルで研究しています。主に人物や城跡が中心です。

出雲市佐田町栗原にある吉栗山は出雲大社の造営に際しこの山から切り出された木が使われ、神戸川を経由して杵築に運ばれた事が記されています。また佐々木備後守常宗が足利尊氏に属し興国二年(1354に)に築城したとも伝えられています。

吉栗山城は広範囲に曲輪や堀切を設けた城のようです。

登山者は皆無と思われます。

今回は登山道の開口も兼ねた試みでした。

図の三所神社跡への道は現在閉ざされて通行不可能です。
まず向かったのが図の下の鳥居マークポイントですが、道が分からないの出丸と思われる郭群から直登します。

鳥居マークは社でした。




この下の郭は広く社の参道があるので、これを利用すると良いかもしれません。


ここから北に一度下り動物避けの柵を開けてどんどん登りますが、道がわずかにあります。
途中の土橋

登るに連れて傾斜と薮の率がアップします。道を開口しながらもう少しで山頂に到着すると思いきや、笹薮に閉ざされて目の前の堀切を見れずに断念せざる終えませんでした。

図の赤い線が開口したルートです。次回は別ルートにするか、再び同じルートにするか分かりませんが吉栗山を登れるようにしたいです。

さて佐々木備後守常宗の家臣に栗原近之介宗重がいたようで、この子孫家があります。
ちらっと確認してみた墓石は丸に隅立て四つ目でした。米原氏も同じです。栗原氏は甲斐武田氏の一族や千葉氏流粟飯原氏の系図にもあり、栗原入道寛秀(四郎禅師)とあます。米原寛綱にも寛の一字をみますし、平内兵衛でもあります。栗原近之介は守ではなく介なので、もとは関東武士、両者は近江佐々木氏の繋がりから四つ目となったとも考えられ、もとは清和源氏あるいは桓武平氏の流れがあったのではないのでしょうか?

吉栗山の再チャレンジはいずれ行います