出雲春日氏 | 源行近のブログ

源行近のブログ

山陰の戦国時代を郷土史レベルで研究しています。主に人物や城跡が中心です。

出雲市古志町の比布智神社の宮司は春日宮司です。春日姓はここより西方の湖陵町に多く、それぞれの神社の宮司をしておられます。古志の春日家は比布智神社に合祀された春日神社の神主で後に位の高い弊頭神主となりました。その歴史は佐与布という人物に始まり、代々古志を名乗っていましたが、平安時代~鎌倉時代に古志重範に子供がなかったので国主の春日出雲守広庭の三男阿曽古子丸を養子として春日を名乗ったとされています。ですが春日神社の神主であるから春日を名乗ったのだと思われます。

その後の1408年に宝物庫の火災があり詳しい事はわからないようです。

ですが、以降も代々受け継がれ現在に至ります。一族には通字として重の字がみえています。春日氏はどこから来たのか?斐川町の熊野神社の元宮司である春日家の祖は武蔵国から来住したと伝えています。一般的には春日氏は和邇氏族で小野氏とも同じ流れです。出雲の日御碕神社は小野氏であり、尼子の武将神西氏も小野氏です。しかしこの二系は重の字がみえません。
ですから直接の繋がりはないと思えます。これを調べていたら思いもよらないところに近道がありました。出雲市西園町の長浜神社宮司が秦氏です。その秦家一族の先祖は武蔵国波多野氏で建武年間に塩冶高貞に従って出雲国佐々布荘に移ったが波多野帯刀安重が戦乱で手傷を受けたため武士を離れ神主となり、神門郡下庄に移住したと伝えています。波多野氏は相模国であり、武蔵国であれば小野氏ですから両者の関係が気になります。

春日宮司の系譜に春日帯刀業重という人物もみえます。佐々布(さそう)は宍道町佐々布であって佐々布氏が要害山を本拠としていました。佐々布から斐川町方面に向かう広域農道(出雲ロマン街道)沿いに畑という地名があり加茂町岩倉とも接しているので古くから秦一族が生活していたと思われます。宍道町大森神社の宮司さんも秦宮司です。

私は春日家系譜の佐与布というのは、佐々布の事と考えていますから佐々布氏は秦氏の流れ。波多野氏は元佐伯姓で佐藤氏(藤原)の娘を妻としたことから藤原氏を祖とするようになったとされます。

今回の事がさらに進展できると良いのですが・・・