映画「事実無根」(ネタバレ注意) | ひらめさんのブログ

ひらめさんのブログ

メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

映画『事実無根』公式サイト

我が京都を舞台とした柳裕章監督(原案も)の映画である。面白そうな予感もあり、評判もすこぶる良い。私がよく観ている「英雄たちの選択」(NHK-BS)でお馴染みの歴史学者・磯田道史氏の推薦youtubeまである(上記サイト下方)。

 

そこで京都シネマにて鑑賞した。なるほど、力作であることはよく分かった。テーマも重要だ。だが、還暦過ぎた私にはフィクションがリアリティを削いでいるようにも感じた。いや、監督と同じ40歳代の頃に観れば、そんなことは気にならなかったかもしれないとも思った。以下ネタバレなので未見の方は注意して頂きたい。

 

星孝史(近藤芳正)の営む「そのうちcafe」に、18歳の大林沙耶(東茉凜)がアルバイトとして働き始める。不器用だがちょっと異常なくらい生真面目な働きぶりであった。そんな彼女を前の公園から盗み見している男(村田雄浩)に気付いた星は彼を問い質したのである。

 

すると彼は沙耶の義理の父親(つまり妻の連れ子が沙耶だった)の大林明彦だと言うのだ。大学教授だったが”事実無根”のセクハラの容疑によって離婚を余儀なくされ、ホームレスにまで落ちぶれてしまった。だが、沙耶にセクハラは無かったという真実だけは伝えたかったのである。

 

一方星も”事実無根”の「DV夫だ」と言う元妻の主張によって娘との面接交渉も叶わぬまま15年が経っている。そんな星は大林継父娘の再会を画策するのだが、なんと星自身が沙耶の実父であったのだ。そして今度は沙耶の画策によって母(つまり元妻)とその再再婚の相手も含めた5人が集まる大団円へと向かうのである。

 

ここで先のフィクションについてである。このあり得ない関係性(実父と継父と娘たちの邂逅)は別に気にならない。あり得なくてもテーマを表現するために必要なら構わないと思うのだ。

 

だが、私の言うリアリティを削ぐフィクションとは、大団円で嘘に翻弄されてきた星が「末期がんで半年の余命だ」と大嘘をつくドッキリのシーンだ。それを沙耶が他人のふりをしてアルバイトに来たことへの復讐だと言うのである。

 

私は嘘をつけない人間だ。関西人なので30円出しながら「はい、おつり30万円」とかはやる。だが、まじめな場面では決してしない。ドッキリは出来ないのである。ところがこの星の末期がんの件はドッキリなのだ。この自分と同じタイプの人間があり得ない言動をするところにリアリティを削ぐ感じがするのである。

 

人間とは未知なるもので、その行動にあらゆる可能性があると想定するとフィクションの受け皿となってくれる。それは自由意思というものに支えられているのだ。だが、まだまだ未知な部分はありながらも、このトシになると、自由意思ではない本能に根差す行動が殆どを占めることを実感するのだった。

 

とりわけ余裕の無い状況ではそうだ。そこでは本能的な根っこのところの行動様式に従うものだと思う。それがその人らしさであり、らしくない行動は何らかの意図とそれを可能とさせるような余裕がある状況を想像させる。だとすると、この大団円のドッキリは不可能に思えるのである。

 

私なら4W1Hのwhy抜きの事実だけを見て、whyの様々な可能性を再考することを訴えたい気分になると思うのだ。それは星を「DV夫」と決めつけた元妻の本意をも知ることにも繋がるだろうからである。

 

星は映画監督の夢に没頭するあまり家庭を顧みなかった。それは元妻にとってはDVと同様に辛いことだったし、余裕の無い状況から逃れるにはそれを方便として使うことが有効に思えたはずである。彼女の理由付け=whyは恣意的なものだが、4W1Hには動かせない事実があるのだ。

 

”事実”より大切なものは”いまの関係性”と言えるかもしれない。だがそれは、4W1Hの事実を反芻することによってこそ得られたものだと私には思えるのである。