心の傷と核廃絶 | ひらめさんのブログ

ひらめさんのブログ

メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

過去の放送|テレメンタリー|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)

毎年この季節になると広島・長崎の平和式典のニュースで核廃絶が訴えられる。私は心の傷から鬱を病み精神科デイケアに通うことになった身なのだが、そこから被爆者の心の傷と核廃絶を考えてみたいと思う。

 

上記番組は、2017年に核兵器禁止条約の成立に貢献したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)を代表してノーベル平和賞の壇上にも上がったカナダ在住の被爆者サーロー節子さん(92)を取り上げたものである。

 

13歳の女学校時代に広島の爆心地から1.8kmで被爆し、家族や学友たちを失った彼女は、「私が生き残ったことには意味があって、そのために人生を使わなければならない」と話している。

 

ことの社会的な意味の大きさは別にして、誰しも困難に直面した時に、当事者の立場だからこそ感じられた問題を後世に伝えていかなければならないと思うものである。

 

 

進化心理学を御存知だろうか? | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

この感覚は以前取り上げた進化心理学の考え方にも通じるものだ。蛇に出くわした時に戦うよりも逃げることが身を守ることになる。そんな蛇を怖いと思わせる遺伝情報を伝えることによって子孫を危険から回避させることに繋がるのではないかという仮説に基づく考え方だ。

 

だが、だとしたら核廃絶という主張は後世に有効に機能するだろうか? 残念ながら私にはそうは思えない。悲惨な状況を生んだ核兵器を無くしたいという思いは分からないではないが、無くせるものではないからだ。

 

核の平和利用である原子力発電ですら肯定出来ない私ではあるが、人類が見つけてしまった何かを人道上の問題があるからと言って無くすことが出来たものなど無いということは知っている。

 

そんなものは何一つ無かったし、誰もが知っていることだろう。それでも核廃絶という理想論が生きながらえているのは被爆者の心の傷を忖度する心情によるのではないかと感じている。 

 

私の通う精神科デイケアというところはそんな忖度を必要とする場所である。例えば利用者Aさんは、Bさんとの間のちょっとしたトラブルからBさんに対して過度な恐怖心を持ってしまった。AさんはBさんが同席することが無いようスタッフに配慮を求める。

 

健康な人であればBさんの自由を侵害してまでの要求など成り立たない訳だが、Aさんの心の傷を癒すためにはなんとかしなければならない。過度な恐怖心がそもそも「歪んだ認知」と呼ばれるものだが、Aさんを、そしてAさんが選択したその生存戦略を否定しないためには道理の方を引っ込めるしかないのである。

 

これと同様に、被爆者の心の傷に配慮して現実的な認識(核の抑止力)という道理を引っ込めているのではないだろうか。彼等にとっては抑止力の為とは言え核兵器を必要とすることは容認出来ないことのようだが、彼等の傷は先のAさんの傷のように血が滴っている状態ではないだろう。

 

傷跡は消えないだろうが、傷の癒えた彼等は過度な恐怖心を持つことなく現実的な認識を持つことが出来るはずである。それは適切な遺伝情報を伝えることにもなるだろう。心の傷に配慮し続けることは一見優しさにも見えるのだが、彼等の自立心をいつまでも蔑ろにするものと私には見えている。彼等を病人扱いすることをそろそろ止めるべきではないだろうか。