ネタバレあり
デンマーク発のホラー映画『胸騒ぎ』(原題: Speak No Evil)は、気まずさと恐怖を極限まで引き伸ばした心理スリラーであり、観終わった後もしばらく心がざわめく異色作です。
監督は俳優としても知られるクリスチャン・タフドロップ。自身が実際に「旅行先で知り合った家族に招かれたらどうなるか」という体験をもとに物語を構想したといいます。
物語は、デンマーク人のビャアンとルイーセ夫婦、そして娘のアウネスがイタリア旅行でオランダ人夫婦パトリックとカリン、その息子アベールと出会うところから始まります。
互いに好印象を抱いた両家は数週間後、パトリック夫妻の誘いを受けて週末を過ごすため、彼らの自宅を訪れます。
人里離れた田舎の家に到着すると、再会を喜び合うひとときの和やかな空気。しかし、やがて会話や振る舞いの中に不穏な違和感が芽生えます。
言葉のすれ違い、強引な誘い、子どもへの扱い、そして常識を揺るがすような要求。礼儀正しさと社交性という枠組みが、恐怖へと変わっていく様子がじわじわと描かれていきます。
ビャアンたちは明らかに居心地の悪さを感じながらも、「失礼になる」とその場を離れられずに過ごし続けます。そんな彼らの“我慢”が、自らを恐ろしい結末へ導くことになるとは知らずに。
物語の終盤、夫婦はようやく我に返り、逃げ出そうとするものの、脱出は叶わず。パトリック夫妻の狂気がついに牙をむきます。
彼らは過去にも同じ手口で家族を狙い、我が子を装って生活してきた異常な存在であり、娘のアウネスは舌を切られ、声を失ったまま次の犠牲者探しに連れて行かれるのです。
感想
観ていて、本当に胃が痛くなるような映画でした。派手なスプラッターやジャンプスケアなんて一切ないのに、こんなにも怖い。
パトリックとカリンの「普通そうな優しさ」の裏に潜む狂気が、現実のどんなホラーよりも恐ろしく感じます。まるで日常の“人付き合い”の延長線上で地獄に落ちていくようなリアリティがあるんです。
序盤の違和感が、何度も“まあ、気のせいかな”って片付けられてしまう。部屋の使い方や食事のマナー、子どもへの接し方など、小さな摩擦を見過ごすたびに「ここで帰ればいいのに!」って言いたくなるんですが、現実でも似たような状況ってあるんですよね。
相手を傷つけたくないとか、空気を悪くしたくないとか。そういう「断れない優しさ」を徹底的に利用されていく過程が、ホラー以上に残酷でした。
演出も抜群に巧妙で、特に中盤以降の沈黙の時間がすごく怖い。セリフがなくても、視線やちょっとした動作だけで観客を不安にさせる。これこそ“胸騒ぎ”というタイトルの意味なんじゃないかと思います。
終盤は一気に残酷さが表面化しますが、それまでの積み重ねがあるからこそ、暴力の瞬間が現実に見えるほど生々しい。しかも、救いがない。娘が声を奪われてエンドロールを迎えたとき、あまりの無力感でしばらく動けませんでした。
正直、「気軽にホラー観よう」というテンションでは全く楽しめません。でも、観る人の心を抉るような“人間怖い系ホラー”としては屈指の完成度だと思います。
観終わったあと、もし旅先で親切にしてくれた見知らぬ家族から「今度うちに遊びに来てよ」と言われたら……笑顔で断る勇気を持とう、って心から思いました。
劇伴も静けさを生かした不快な音構成で、最後まで“逃げ場のない息苦しさ”に包まれます。映画全体が一つの社会実験のようでもあり、観客自身が「自分ならどうするか」を試されているようでもあります。
観たあとに強烈な後味を残す作品が好きな人にはおすすめですが、心の準備はしっかりしてから観ることを強くすすめます。