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「ある阿呆」の考察

明治大学商学部卒。
農業、日本語教育を生業とする。
日々感じていることを表現してみたいということで
稚拙な文章を書いています。

 私は現役時代、駿台福岡校に通っていた。当時の志望校は私大の中で最難関の「早稲田大学政治経済学部」。

 

 しかし、当時の私は英語の五文型すら分かっていない状態で入塾した。今考えても人生を舐めてると思う。

 

 当時、どうしてもジャーナリストになりたかった。そうであれば早稲田の政経に行くと心に決めていた。

 

 入学当初、担任からは散々諦めるように言われたが、無視。

 

 と同時に、ある特別講座を進められた。竹岡広信の先生の「エッセンス」という授業だった。通常授業が終了した後に、6時に開始して、予備校の閉館時間の9時に終わる授業である。

 

 詳細は覚えていないが、1限目は「英単語の授業」、2限目は「センター英語対策」だったと思う。

 

 初めて、竹岡先生授業を受けたときの印象は、「世の中にはこのような熱意とプロ意識を持った先生がいるのだな。」

と感じた。

 

 英語の五文型すらわからない状態で、竹岡先生の高度な授業を十分に理解することはできなかった。

 

 自分の学力にそぐわない授業だったが、「この先生についていきたい。」という思いが授業を受けるたびに強くなっていき、授業を1度も欠席することなく1年間を過ごした。

 

 授業の合間に、英語に関する豆知識や先生の若い頃の思い出など、生徒の集中力が切れかかっているのを見計らって、お話しされていたように記憶している。

 

 生徒の授業を受ける態度にも厳しく、肘をついている生徒を見つけるなり、

 

「肘、肘。何をしてんねん。俺は京大出てるんやで。」

 

今でも、鮮明に覚えているセリフである。竹岡先生にのみ口にできる言葉だと今でも微笑ましく思っている。

 

 また、入試直前期の授業の休み時間に受験勉強に疲れていた多くの生徒が寝ていた。チャイムが鳴る前に入室してきた先生がそれを見るなり、

 

「お前ら、何寝てんねん。休み時間も勉強せいよ。」

 

と一喝されたのを覚えている。そのとき私はたまたま、最前列の席で単語帳を見ていたので、先生に、

 

「そうやろ。」

 

と声をかけられた。内心、「助かった。」と思った。

 

そして、私が一生忘れられない竹岡先生とのエピソードを書く。

 

私は上記したように、英語の成績は壊滅的だったものの、竹岡先生のパワフルな授業もあり、受験当初からみると飛躍的に伸びていた。

 

しかし、最初が最初なだけに英作文の対策まで手が届かなかった。

 

私は竹岡先生に講義室に相談へ行った。

 

「先生、英作文ができません。どうしたらいいですか。」

 

と先生に質問をした。

 

先生は、

 

「お前、どこ受けんねん。」

 

「早稲田の政経です。」

 

すると、晴れ渡っていた空からいきなり大きな雨雲が発生し、ズドンと雷が落ちた。

 

「なめてんのか。」

 

私は直立不動するしかなかった。その言葉以降、先生の言葉は全く入ってこなかった。

 

私は「先生」という存在から怒られはしたが、怒られて泣いたことはなかった。

 

私はそのとき初めて「先生」という存在から怒られ半泣きになったのを今もはっきりと覚えている。

 

その後どうなったのかは全く覚えていない。

 

では、その一件で竹岡先生のことを嫌いになったか。答えは「 No」である。

「半泣き事件」の後も先生の直前講習を躊躇なくとった。

 

残念ながら、第一志望の大学には落ちてしまったが、駿台福岡校で竹岡広信先生に教わった教えは私の中で生きている。

 

「予備校」で「恩師」というと変な感じだが、

 

「竹岡広信」

 

という存在は私の中では、

 

「自分の人生観に最も影響を与えてくれた存在」

 

である。

 

最後にその教えの一つ書いて終わりにする。

 

「妥協しないこと、逃げないこと」