昭和の作詞家(25)米山正夫 | 昭和歌謡

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懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎これこれ石の地蔵さん

 米山正夫(大正1年~昭和60年)は昭和を代表する作曲家の一人。東京渋谷区穏田(今の神宮前あたり)の生まれ。東洋音楽学校ピアノ科を首席で卒業、作曲家の道に入った。明るく軽快なリズムの曲を得意とし、クラシック、ロック、ジャズ、演歌などいろいろな要素を取り入れた独特なひらめきのある斬新な作品が多かった。

 作詞も手掛け、昭和20年代後半から30年代後半にかけては美空ひばりに作詞作曲の歌を次々と提供した。ひばりにとってこの時期は、少女歌手から大人の歌手に羽ばたく大切な時期だっただけに、ひばりは米山を終生の恩師とあがめ米山の葬儀では弔辞を読んだ。

 「山小舎の灯」(昭和22年・米山正夫作詞作曲・近江俊郎歌)〽たそがれの灯は ほのかに点りて 懐かしき山小舎は ふもとの小径よ

 米山の最初のヒット曲。親友の近江に頼んでNHKのラジオ歌謡で放送したところ大反響を呼んだ。2番は〽暮れ行くは白馬か 穂高はあかねよ…だが、白馬岳と穂高岳が同時に見える山小舎はないそうだ。

 昭和24年には17年に発表したが発売禁止になっていた「森の水車」が荒井恵子の歌でよみがえり、27年にはひばりの「リンゴ追分」(小沢不二夫作詞)が当時としては記録的なヒットとなった。この後、米山はコロムビア専属としてひばりに作詞・作曲の歌を立て続けに提供する。

 「津軽のふるさと」(28年)〽りんごのふるさとは 北国の果て うらうらと 山肌に 抱かれて 夢を見た あの頃の 想い出 ああ今いずこに

 この歌は長いこと「リンゴ追分」の陰に隠れていたが、徐々に人気が出て今では「リンゴ追分」に並ぶ名曲として評価されている。リンゴ畑の向こうに日本海が広がる津軽のうらうらとした風景が浮かんでくる、とてもいい歌だ。

 「日和下駄」(29年)〽日和下駄 日和下駄 何処行きゃるか 露地のほそみち カラコロと

 なんとシュールな歌。まあ聴いてみてください。

 「花笠道中」(33年)〽これこれ 石の地蔵さん 西へ行くのは こっちかえ だまって居ては 判らない ぽっかり浮かんだ 白い雲 何やらさみしい 旅の空

 この年、東映専属になったひばりが大川橋蔵と共演した「花笠若衆」の主題歌。歌謡曲のジャンルのひとつ股旅ものの中の傑作といえる。歌など歌ったことのない私の父親が「これこれ…」と口ずさんでいたし、岳父も酔うと「これこれ…」と手振りして歌っていた。

 「車屋さん」(36年)〽ちょいとお待ちよ 車屋さん お前見込んで たのみがござんす この手紙 内緒で渡して 内緒で返事が 内緒で来るように 出来ゃせんかいな

 これはもう米山メロディーのひとつの頂点ともいうべき曲。さのさみたいだし、ロックみたいだし、間に都都逸が入ったりで、音楽はよくわからないが相当レベルが高い曲だと思う。ほかの歌手が歌っても物足りない。ひばりでなければ歌えない。

 「関東春雨傘」(38年)〽関東一円 雨降るときは さして行こうよ 蛇の目傘 どうせこっちは ぶん流し エー テー… エー 抜けるもんなら 抜いてみな 斬れるもんなら 斬ってみな さあ さあ さあさあさあさあ あとにゃ引かない 女伊達  

 この年、日本コロムビアの常務で辣腕プロデューサーで知られた伊藤正憲が独立してクラウンレコードを設立した。米山は作詞家星野哲郎や歌手の北島三郎、水前寺清子らとともに伊藤と行動を共にしクラウンに移籍した。ひばりは恩師の米山の新しいスタートを応援したいと所属するコロムビアの首脳に談じ込んで極めて異例の他社での吹き込みを実現させた。それがこの曲で、ひばりの義侠心に米山が応えるような歌になっている。歌詞は女渡世人の胸のすくような啖呵で、歌うと「エーエー」「さあさあ」と繰り返すところが誠に心地よい。

 この後、クラウンで米山は作曲家に専念し、美川憲一の「おんなの朝」西郷輝彦の「涙をありがとう」「初恋によろしく」美樹克彦の「花はおそかった」そして水前寺の「三百六十五歩のマーチ」などを作曲した。

 米山は温厚で物静かな人で、若い歌手にも偉ぶらず紳士的に接したという。                 (黒頭巾)

 

 

 

 

 「長崎の蝶々さん」(32年)「ロカビリー剣法」(33年)