昭和の作詞家(24)井田誠一 | 昭和歌謡

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懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎若いお巡りさん

 井田誠一(明治41年~平成5年)は東京八王子市生まれ。早大文学部卒業後、八王子中学(現八王子学園八王子高校、三田明の母校)で教師の傍ら作詞をしていたが、戦後になってビクター専属の作詞家としてスタートした。作品にはとにかく明るい歌が多く、歌は人々に夢と希望を与えるものだという信念があったようだ。

 「東京シューシャインボーイ」(昭和26年・佐野鋤作曲・暁テル子歌)〽サーサ皆さん 東京名物 とってもシックな 靴みがき 鳥打帽子に 胸当ズボンの 東京 シューシャインボーイ

 戦争で親をなくした靴磨きの少年をテーマにしている。戦後6年たっても戦争の傷跡は残っていた。ただこの歌はあくまで明るく希望に満ちていて少年たちを励ましている。4年後の30年には同じ靴磨きの少年を歌った宮城まり子の「ガード下の靴みがき」がヒットしたが、こちらは悲しい歌になっている。井田の明るさが際立っている。

 「水色のスーツケース」(26年・利根一郎・灰田勝彦)〽何処かで誰かが呼ぶような そんな気がして旅に出た 水色のスーツケースの中には

 スーツケースを抱えて旅に出る時のウキウキした気分がよく表れている。このころの旅は飛行機や車ではなくもっぱら汽車だったが、その汽車は混んでいてのんびり旅するどころではなかった。それだけに〽ああ海原に 淡く鴎群れ飛び はるばると汽車は走るよ…といった歌詞は旅への憧れと明日への希望をかきたてた。

 「若いお巡りさん」(31年・利根一郎・曽根史郎)〽もしもし ベンチでささやく お二人さん 早くお帰り 夜が更ける

 井田最大のヒット曲で、曽根も下積みの苦節10年の末に花開いた。軽いコミック調の歌詞と誰もが歌えるメロディーであっという間に全国に広まった。愛される警察のイメージアップになると当局は大喜び。警視庁の講堂で制服制帽姿の曽根が歌ったこともある。その折りに最も拍手喝采を受けたのは4番の〽もしもし たばこえおください お嬢さん 今日は非番の 日曜日 職務尋問 警棒忘れ あなたとゆっくり 遊びたい 鎌倉あたりは どうでしょうか 浜辺のロマンス パトロール…だった。こんな優しいお巡りさんばかりだといいのだが、なかには「怖いお巡りさん」もいる。

 「泣かないで」(33年・吉田正・和田弘とマヒナスターズ)〽さよならと さよならと 街の灯りがひとつずつ 消えてゆく 消えてゆく 消えてゆく 

 マヒナの最初のオリジナルヒット曲。恋人同士が楽しい1日のデートが終わり別れる時の淋しさを歌ったものだが、ここでも井田は最後を〽明日の晩も会えるじゃないか…と明日への希望で締めくくっている。

 井田は外国の歌の日本語詞でも知られ雪村いづみの「遥かなる山の呼び声」「青いカナリア」「チャチャチャは素晴らしい」、32年に大流行した浜村美智子の「バナナ・ボート」などは井田の作品だ。

 井田は平成5年に八王子市内の自宅で死去、その6年後に八王子を見下ろす高尾山薬王院に「若いお巡りさん」の歌碑が出来た。

                                                                (黒頭巾)