昭和の作詞家(16)清水みのる | 昭和歌謡

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懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎波の背の背に揺られて揺れて

 清水みのる(明治36年~昭和54年)は浜松市西区伊佐地町の生まれ、名門浜松中学(現浜松北高)から立教大学英文科卒。日本ポリドールの社員の傍ら作詞活動を始める。清水の代表曲といえば作曲家倉若晴生とのコンビでつくった田端義夫の「船」シリーズだろう。

 「別れ船」(昭和15年)〽名残りつきない はてしない 別れ出船の かねがなる 思いなおして あきらめて 夢は潮路に 捨ててゆく

 歌詞には直接は出てこないが、時節を考えると出征していく兵士との別れを歌ったものだろう。努めて明るくふるまってはいるものの、果たして生きて帰れるかどうか分からない切ない別れだ。

 「かえり船」(21年)〽波の背の背に 揺られて揺れて 月の潮路の かえり船 霞む故国よ 小島の沖じゃ 夢もわびしく よみがえる

 戦争が終わって外地からの引揚船が続々と日本の港に帰ってくる。この詞のモデルは博多港で「小島」は博多湾の入り口にある玄界島だ。

3番は〽熱いなみだも 故国に着けば うれし涙と変わるだろ…悲惨な戦争が終わり晴れて故国の土を踏んだ引揚者の心情がにじみ出ている。バタやんの名曲として今も歌い継がれている。

 「ふるさとの燈台」(24年・長津義司作曲・田端義夫歌)〽真帆片帆 歌をのせて通う ふるさとの 小島よ 燈台の岬よ 白砂に 残る思い出の いまも仄かにの

 「船」シリーズの延長線上にあるような、ゆっくりとしみじみとした名曲でコント55号の坂上二郎はじめこの歌を愛する人は多い。燈台は静岡県の御前崎燈台で燈台に近くにこの歌の歌碑がある。碑文の中で清水は「時は昭和20年初夏、三回目の応召をうけた私は、本土決戦のため千浜より池新田に亘る海岸線の防御部隊に配属を命じられた。玉砕の日の近きを知ったその頃、御前崎燈台の偉容を遠望しつつ、郷里浜名湖の風景にも思いを走らせ、望郷の念やみ難きものをこの作品に織り込んだ」と書いている。

 「森の水車」(16年・米山正夫・高峰秀子)〽緑の森の彼方から 陽気な歌が聞こえましょう あれは水車の廻る音 

 戦時中にしては明るいリズミカルな歌で「バタ臭い」という理由から発禁になった。戦後、荒井恵子がラジオ歌謡で歌って広まった。清水の郷里・伊佐地町には水車のある森の水車公園ができた。

 「星の流れに」(22年・利根一郎・菊池章子)〽星の流れに 身をうらなって どこをねぐらの 今日の宿 荒む心でいるのじゃないが 泣けて涙も かれ果てた こんな女に誰がした

 新聞に載った22歳の女性の「転落して夜の女になったいきさつ」を読んだ清水は「元はといえば戦争が悪い」と、こみあげてくる戦争への怒りを詞に込めた。戦争が終わっても戦争によって受けた心の傷はいつまでも消えなかった。

 「月がとっても青いから」(30年・陸奥明・菅原都々子)〽月がとっても 青いから 遠廻りして帰ろう あのすずかけの 並木路は

 「もはや戦後ではない」と書いたのは31年の経済白書。清水の歌からもようやく戦争の影が消えてきた。心がウキウキしてくるような歌で、当時10歳だった私もラジオから盛んに流れてきたこの歌を口ずさんだ。菅原は独特のバイブレーションをきかせた歌い方で私はあの世代の女性歌手のなかでは一番好きだった。

 「雪の渡り鳥」(32年・陸奥明・三波春夫)〽合羽からげて 三度笠 どこを塒の渡り鳥

 何度か映画化もされた鯉名の銀平の物語。三波の股旅演歌の最初にして最大のヒット曲。

 こうみてくると清水の詞には「波の背の背に揺られて揺れて」「こんな女に誰がした」「月がとっても青いから」「合羽からげて三度笠」など、さすがというような名文句が多い。                                          (黒頭巾)