昭和の作詞家(1)北原白秋 | 昭和歌謡

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懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎幼き日への郷愁

 詩集「邪宗門」などで知られる北原白秋はずいぶんと昔の人のように思われるが、亡くなったのは昭和17年なので昭和の時代も生きたことになる。白秋の実家は九州柳川の大きな海産物問屋だったが大火によって没落してしまう。今は母屋だけが修復されていて数年前に訪れたことがある。広い土間のある立派な家で裏に記念館が建っている。作詞した童謡、唱歌は新鮮な感覚にあふれており、いまもなお歌い継がれている。

 「城ヶ島の雨」(大正2年・梁田貞作曲)〽雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる…。

 白秋は明治45年隣家の人妻と不倫しその夫から姦通罪で告訴され拘留される。世間から指弾され詩人としての名声は地に墜ちる。傷心の白秋は三浦半島の突端の三崎市に移り住み、そこで雨に煙る城ケ崎を詠った。しみじみとした抒情歌で当時の白秋の心境が感じられ、私の好きな歌だ。

 「砂山」(大正11年)〽海は荒海 向こうは佐渡よ すずめ啼け啼け もう日は暮れた…。

 新潟の海辺を訪れた白秋が佐渡をのぞむ日本海の荒波に感動して詞にした。メロディーは中山晋平作曲と山田耕筰作曲の二つあって、どちらも広く親しまれている。前者は夕暮れの海辺で子供たちが元気に歌っているような感じで唱歌調、後者は夕暮れの海辺の物悲しさが見にしみるような抒情歌調だ。どちらを好むかは人それぞれだろうが、私は後者の方が好きだ。

 「からたちの花」(大正13年・山田耕筰作曲)〽からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ…。

 山田耕筰は日本の交響楽団活動の基礎をつくるなど草創期の日本音楽界の最大の指導者だったが、幼いころ家が貧しく養子に出され活版工場で働きながら夜学に通っていた。「工場でつらいことがあるとからたちの垣根まで逃げて泣いていた」という耕筰の思い出を白秋が詞にした。

 「ペチカ」(同)〽雪の降る夜は 楽しいペチカ ペチカ燃えろよ お話しましょ…

 これも山田耕筰の作曲。ペチカは煉瓦づくりの暖炉。外は雪だが家の中は暖炉で暖かく、家族が楽しく団欒している。そんな情景が浮かんでくる心温まる歌だ。

 「この道」(大正15年)〽この道はいつか来た道 ああ そうだよ あかしあの花が咲いてる…。

  1番と2番は白秋が旅行した札幌の道で、アカシアや時計台が出てくる。3番と4番は白秋が子供のころ母親と馬車で通った母親の実家がある熊本県南関町から柳川までの道だ。この歌を聴くと人それぞれに懐かしい「この道」を思い浮かべるだろう。これも山田耕筰作曲。この二人による歌を聴くと懐かしい幼き日々の思い出が浮かんでくる。

 「ちゃっきり節」(昭和2年・町田嘉章作曲)〽唄はちゃっきり節 男は次郎長 花はたちばな 夏はたちばな 茶のかをり ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ きやァるが啼くから雨づらよ

 新民謡。静岡と清水を結ぶ静岡鉄道が沿線に狐ヶ崎遊園地を開園する際のCMソングを当代一の作詞家である白秋に依頼したが、白秋は静岡の芸者屋に入り浸って一向に仕事をしようとしない。困った会社側は依頼を打ち切ろうと検討し始めたある日、土地の老妓が空を見上げて「きやァるが啼くから雨づらよ(蛙が啼くから明日は雨だろう)」とつぶやいたのがヒントになって一気に30番まで書き上げたという。当初は静岡近辺でしか流行らなかったが、後に市丸がレコードに吹き込み昭和32年の静岡国体の開会式で披露されたことで全国に広まった。                                                                  (黒頭巾)