◎昭和とともに生きた歌姫
美空ひばりは平成元年すなわち昭和最後の年に逝った。昭和とともに生き、昭和とともに去った、まさに「昭和の歌姫」である。ひばりの曲は全部で50曲ぐらい歌えるが、その中から私のベスト10を年代順に選んでみた。
「越後獅子の唄」(昭和25年・西条八十作詞・万城目正作曲)
これはひばりの原点であり、私の歌謡曲の原点だ。松竹映画「とんぼ返り道中」の主題歌で、旅芸人の一座が街道を遠ざかっていくラストシーンでは一番を高田浩吉、二番を川田晴久そして三番の〽ぬれて涙で おさらばさらば 花に消えゆく 旅の獅子ーをご本家ひばりが歌う。また嵐寛寿郎主演の松竹映画「鞍馬天狗」三部作でも杉作のひばりが京の町角でこの曲を歌う。この三部作では同じコンビによる「角兵衛獅子の唄」「旅の角兵衛獅子」も歌われる。いずれもいい歌で、みなしごの角兵衛獅子の寂しさ悲しさが胸をうち、ひばりのイメージと重なってくる。「河童ブギウギ」でのレコードデビューした翌年、13歳の時の歌だ。
「私は街の子」(26年・藤浦洸・上原げんと)
この歌と「悲しき口笛」(24年・藤浦洸・万城目正)は甲乙つけがたいが、あえてこちらを選んだ。ひばりは横浜の南のはずれ滝頭の魚屋の娘。この歌を聴くと夕暮れの横浜の街を家路に急ぐ少女ひばりのちょっと寂しげな後ろ姿が浮かんでくる。ひばりは両親がそろっていたのに、この時期の歌や映画ではなぜか孤独な少女役が多い。
「津軽のふるさと」(28年・米山正夫作詞・作曲)
有名な「りんご追分」(小沢不二夫作詞・米山正夫作曲)の翌年の曲。松竹映画「りんご園の少女」の主題歌で、発売当初は注目されなかったが徐々に人気が出て、今では私を含めてこの曲のほうが歌われることが多いのではなかろうか。歌っていると岩木山の麓の一面のリンゴ畑と青い空、青い海が目の前に広がってくるようだ。ふるさとと幼い日々への郷愁を誘う名曲だ。地方を舞台にした歌では「伊豆の踊り子」「娘船頭さん」もいい。
「ひばりのマドロスさん」(29年・石本美由紀・上原げんと)
かつて歌謡曲ではマドロスものが大流行した。ひばりも横浜出身ということでこのジャンルを得意とし、タイトルにマドロスがついた曲が多い。「君はマドロス海つばめ」(31年)「浜っ子マドロス」(32年)「三味線マドロス」(33年)「初恋マドロス」(35年)「鼻唄マドロス」(36年)など、みんないい歌だ。最初のマドロスものがこの曲。40代のころ鹿児島の天文館のクラブに行ったらホステスさんがこの曲を歌っていた。東京ではまず歌われない曲で「やはり東京と地方は違うなあ」と新鮮に感じたものだ。
「哀愁波止場」(35年・石本美由紀・船村徹)
タイトルにマドロスは入っていないが、ひばりには船乗り、波止場など海をテーマにした曲が多い。「波止場だよお父つぁん」(30年・西沢爽・船村徹)「港町十三番地」(32年・石本美由紀・上原げんと)のどれを選んでもよかったが、ひばりの裏声の魅力をいかした曲としてこれを選んだ。母親の喜美枝さんは船村に「お嬢をつぶす気ですか。あんな声(裏声)を出させるわけにはいかない」と猛反対したが発売するや大ヒット。〽夜の波止場にゃ 誰もいないーという出だしの裏声が物悲しい夜の波止場の雰囲気をかもしだしている。
「ひばりの渡り鳥だよ」(36年・西沢爽・狛林正一)
マドロスものと並んでひばりが20代のころよく歌ったジャンルに股旅ものがある。「花笠道中」(33年・米山正夫)とどちらを選ぶか迷ったが、三番の〽雪の佐渡から 青葉の江戸へーのくだりが何とも言えずいいのでこっちにした。「花笠道中」ものんびりした旅の風景が浮かんできていい。歌いやすい歌なので、父親も義父も酔うと鼻歌で歌っていたのを思い出す。私が時々歌う「お島千太郎」(40年・石本美由紀・古賀政男)も股旅ものに入るだろう。出だしの〽花はさいても 他国の春は どこか淋しい 山や川ーがいい。
「ひばりの佐渡情話」(37年・西沢爽・船村徹)
これは名曲だ。けど難しい。出だしの〽佐渡~の~ーのくだりを、どこまで伸ばしたらいいのか、どう節をつけるのか何度歌ってもうまく歌えない。だからカラオケで歌う人はいないしプロもしり込みする。歌えるのはひばりだけだ。
「悲しい酒」(41年・石本美由紀・古賀政男)
実はこの歌は、つくりすぎというか、くどい感じがして昔は好きじゃなかった。60歳になったころ一緒にカラオケに行ったある会社の社長さんが、この歌を歌って三番の〽好きで添えない 人の世を 泣いて恨んで 夜が更けるーが何とも言えないという。好きだった人と結婚できなかったのか聞いたら深くうなずいていた。私にはそういう経験がないが、人の世は思うようにはならないものだということはいつも感じている。この後この歌が好きになった。
「ひとりぼっち」(50年・山口洋子・遠藤実)
今はほとんど行かないが、5、60代のころはよくカラオケで歌っていた。そのころ歌っていた曲である。時には酒を飲むだけ飲んで酔いしれたい夜がある。最後に〽お酒が飲みたい こんな夜はーを繰り返すこの歌は、そういう夜にぴったりだった。セリフの最後の「そろそろ看板だけど ネっ もう一杯いかが」も受けた。酒場のママさんの歌をもう一曲。「ある女の詩(うた)」(47年・藤田まさと・井上かつお)もしんみりしていい歌だ。三番の〽わたしに嘘を ついた人ーのところでひばりが苦笑するのを思いだす。「関東春雨傘」(38年・米山正夫)も調子がいいのでたまに歌っていた。
「みだれ髪」(63年・星野哲郎・船村徹)
ひばりの絶唱だ。星野・船村コンビが残した昭和の名曲でもある。三か月の長期入院の後の再起をかけた曲で高音の難しい曲だが、病み上がりとは思えない声量で見事に歌い上げた。「一卵性親子」といわれた母親を亡くし、二人の弟にも次々と先立たれ、さらには江利チエミ、鶴田浩二らの親友もいなくなって、晩年のひばりは寂寥感にとらわれていた。曲の最後の〽ひとりぼっちに しないでおくれーのくだりには、ひばりの万感の思いが込められていた。最後の曲になった「川の流れのように」(平成元年・秋元康・見岳章)で自分の人生を静かに振り返って、ひばりは去っていった。晩年のひばりは菩薩のような顔をしていた。 (黒頭巾)