受け手の問題:殺られ役は武道でも武術でも有り得ません! | NeoMackey_ITpro&古武道のブログ

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受け手の問題:殺られ役は武道でも武術でも有り得ません!
超長文!
 往々にして有段者レベルでも受け手が力を入れずに攻撃したり、どちらかに力を極端に出す、例えば前方のみや後方のみの明らか過ぎる方向への攻撃が多見されます(形稽古を認識せずものすごく押し込んだり、逆にものすごい力で引っ張る等を指しています)、現実の攻撃と言う事からかけ離れ過ぎた攻撃手法となっています。ある程度からの上の練習では力一杯に押したり引いたりはすべきことですが、形稽古や理合の習得前には意味の無い乱闘です。
 技によれば明らかに引っ張った形で開始する稽古をしましょうとか、逆にあきらかに押している形での稽古をして、夫々の理合を深め研究する意図の形も有ります。
 これは立技、座技、自分は座り敵が立つ半身、後からの攻撃も後捕のどの形からも、押すかもしくは引く形での稽古は有り得ます。
 しかし古武道的な身体作りを兼ね備えた稽古の場合は、まず相手を静止させて、前にも逃がさない、後ろに押してくる事もし難い、受け手が相手をその位置で取り押さえた形から稽古する事を筆者は推奨しています。
 捕り手を静止させた形において、ある程度の技の理合を研究して、某かの理合を見つけ、それを研究し対応方法を会得してから、応用となる押された形、若しくは引かれた形のさばきや動きを稽古すべきでしょう。
 往々にして、有段者でも他の格闘技出身者など乱取を重きに行なって来た者は、マダマダ理合習得においては未熟な身体のくせに応用を先にやりたがり、結果的に型崩れを起しているにも関わらず、技が出来たとか、浅い理解の状態で次の段階の技の手順を知りたがったり、稽古をやりたがるものです。良く無い言葉遣いですが、アンタには十年も二十年も早い稽古をしている事となり。型崩れをおこし、全く理合の理解を得ず、形の大まかな手順と段取りを覚える事を技が出来た!や理合を会得したと大きな勘違いをしているのです。一般的な運動能力の高い者や、若年層のオタク気質が強い者ほど直ぐに実戦だの今すぐ使える護身術等の売り文句にはやし立てられた気持が先走り、わたしは出来ているのだからと、次の段階の稽古に入りたがったり、基礎を疎かにするのです。よくよく自戒しましょう。

 様々に稽古においては受け手の前提条件は有ります。何でも有りの自由稽古では有りません。これも蛇足ですがルール無しだとか、顔面攻撃も有りの自由な攻防を謳ったりしている格闘技の者はこう言う形稽古の趣旨が理解できず、役に立たないとか、それでは攻撃に成らないとのたまいます。彼等は彼等で自分達の好きなルールを設けてその範囲でのある意味ゲームをされています。中には常人離れしたパフォーマンスを見せる方も存在して、それはそれで努力と能力を高める事をされていて否定するのではありませんが、古武道の稽古はしていません。自由攻防ならこちらはどんな武器を持っても良く遠くから攻撃するのも有なのですが、それは卑怯だとかそれでは格闘に成らないと言うと思います。様は他者の極めた事で稽古をするとか昔から伝えられている稽古法に対して、浅薄な知識で幼稚な反抗をしているだけです。よくよく考えて古武道の稽古を飽まず、弛まず行いましょう。

 話を元に戻しますが、受け手は攻撃意欲を含めたもので、ただしそこには動きの変化を交えたり、他の攻撃要素を拡大し過ぎては行けません。
 形は全くそのままにするべきかどうかという論が有ります。筆者は全てのタイミングや全ての手足の動作をそのままするという考え方には賛成しかねます。芸道に於いてはかなり形が洗練されており、そこには音楽なども含まれていたりしてかなり完成度の高い形があります。日本の芸事の場合には全てのタイミングや手足の動かし方、その他諸々に所謂秘伝までが伝えられていると考えてよさそうです。ただ武道の場合は受け手の攻撃が実際には全く同じという事が考えられません、スピードの速い動きをする者、力を最大に伝えてこようとする者、武器の長短の差、手足の差、敵が千差万別が想定されるのです、その中からその流派の身体を作る、体の動きを効率よく、疲れなく、力負けせず、秘伝口伝と言われる技を繰り出し、勝ちを得るのが最終目的です。ですのでその形に伝えられている本質を見抜き、デフォルメされている動きの中から、その流派の大事な要素を探し出して行う必要が有るのです。ですので、武道での形の手順はおおよそが伝わって居ると考えて、例えば当身の出すタイミングは本当に元々はこう伝わっていたのか、両手や足は同時に使うのか若干の差をもうけるのか、当身は力強く当てるのか(往々にして初学者程直ぐに殴りたがり相手の体に当てたがりますが筆者は直接的な打撃を当身の本旨とは見なしていません)、所謂フェイントを重視したものなのか、不意をついた意外性を主としているのか、無意識の反応を引き出す為のきっかけの動きなのか、そう言う考察や様々比較する為の応用稽古は逆に大事です。当身一つでも単純な方は常に殴るを主とします。しかし稽古をすれば打突系の武道で無い当流では拙無い理解では無いかと思えるのです。当身を絶対に受け手に当てるなと言うのでは無く、ケースバイケースで使い分けると言う理解も成り立ちます、よくよく習っていた形を見直してみれば様々な方策も見えてきます。
 先輩方からの伝えは大事ですが必ずしもそれは本質を全て教えてくれて居るとは限りません、武道では当然明日急に敵となる可能性も含んで互いに稽古に入っている可能性も否定出来ません。初学者には嘘は教えていませんが、多くは形の形からのみを教える事が多く、長年継続する者に徐々に伝授したり、少しのコツを入れると途端に数段上の基準に成れる基礎のみを指導している事が有ります。その為に稽古生のレベルで伝える事の詳細迄見ると、同門でも差が出たりするものです。ごく最近迄武道は先達から盗むもので有り、現代的な懇切丁寧な詳細までの説明はされず、読み解く力の有る者のみが、より高度な技術を会得すれば良かったのです。
 ここまでで受け手の態度は、攻撃意欲を持つ、基礎は捕り手を静止させる形から押す場合、引く場合の形は別けて稽古すべき、先達からの形の手順はおおよそで、そこに手や足の動きは少しの時間差等は考察して稽古すべき、違う手を入れての乱取り的な稽古は戒める事。
 そして理合の研究はあくまでも元々は互いに剣を持った形、若しくは捕り手は小太刀で対処か素手にて対処にまで進んだと見なす。元々の理合をどの時代迄遡るかにより差が有りますが、筆者は江戸時代の互いに剣を持った辺りで想定しています。古伝の形には互いに甲冑姿で考えないと不可思議な形も含まれています、ですので混在している可能性も考えながら形稽古すべきです。流派によればほぼ全て甲冑でされている会派もありますし、逆に江戸時代以降に成立されている所は剣技か平服の体術が継承されているとみなすべきでしょう。
 想定される剣での攻撃形態から行い、現代格闘技の様に互いに素手で相手は一人の前提にとらわれないことが理解を深めると思われます。誤解無き様に、特定の剣の流派の稽古をしないと当流の技術が出来無い訳でもなく、また一剣術流派の有段者で有っても直ぐに当流の技がそのまま通用する物では有りません。ここでも異論のある方は全て剣術の流派は違うのだから共通項など無いと言われる方も居られるでしょうが、日本刀を使っての切りつけの形から稽古を行い、その中で身体の使い方や足の捌き方を研究すればある程度の部分は見えてきます。逆に剣の攻撃を想定せずに素手の手刀の正面打ちや横面打ちのみを稽古していると理合いの習得にはかなり遠い道では無いでしょうか。