剣の理合とは1
よく柔術の諸流派で柔術の極意は剣の理合ですと言われる事が有ります。
稽古、研究を深めれば確かに剣術(現代スポーツ剣道では有りません、何でも長所短所有りますが若年層の心身の健康と精神鍛錬の部分を考慮し、試合と言うゲーム理論も上手く取り入れ西洋人思想とも相容れる事により様々に発展された物と見えます)の技術や、自分は全く安全状態に成りながら他を制すると言う技術に、剣と柔術は共通の理念や技を見出されます。剣術の流派の中では、剣の技量が有る程度高まった時点で、はじめて柔術技法を伝授される流派もある様です。
例えば、突き技に対する手法は、各柔術流派や、現代では合気系と呼ばれるところでよく稽古されています。
その稽古を見て、多くの他の格闘技経験者や実戦派と呼ばれる者達から失笑を含めて否定される事が多々ある様です。
受け役が余りにも無防備で、武道や格闘技の突き、打ちとは全く縁遠い単に腕を伸ばして自分の体の何処かを守るつもりも全く無く、隙が有るとしてもチンピラの鉄砲玉と言われる様に自分の命や体はさておき目的の相手の生命を奪うと言う!差し違えても良い気迫の有る突きでも有りません。
隙だらけで攻撃意欲や無目的に殺られ役を演じています。
当然稽古や練習段階では稽古相手の技量に合わせて手加減をすると言う事は有っても良い事です、その者が少し努力すれば到達出来そうな目標を掲げて努力に対しての成功体験を積ませつつ、技能の基礎能力や体力を培う事は必要です。余りにも敷居が高過ぎると、気持が萎えてやる気が出無くなったり、本人の技量から離れ過ぎる事を無理に行い体を壊したり、損傷が戻らない事に成るのは本末転倒の過剰な負荷訓練をして居る事に成ります。超初心者や格闘や武道経験値の低い人には徐々にステップアップする事は大事ですが、何年経っても、技量や体力が付いてきているのに、超初心者向けの稽古法を続けるのはほぼ意味が有りません。
受け手の攻撃速度、方法、様々にレベルをあげていき、それを対処する稽古法にしていかないと、本当の理合の理解は成りません!
これは一気に自由攻撃の様な乱取りや、攻撃ルール制限内でも組手練習の様な実戦形式をすれば良いとは言いません。多くの格闘経験者や若い思慮の浅い者は、理合理解としてはレベル的に早すぎるのに、組手練習や自由稽古を行い、結果形崩れを起こすだけです。十年早いと言われる様な愚行が頻繁に見られます。実戦何とかとか実践的とか直ぐに役立つとかの類いに、組手、自由稽古が散見されますが、中身が乱暴な稽古もまた己の真の技量を知らない幼稚な解釈です。
ただスポーツ格闘技やスポーツ武道ではこの手の組手、自由稽古はある程度早い時期でも構いません、なぜかと言うと多くの禁じ手や攻撃方法を制限しているからです、ここに安全性とのトレードオフと若者向けの、育ち盛りの体の体育やルールを守る精神を養って居るのです。
昨今の若年層の指導者はこの精神的な成長を促す事や若者の成長に寄与する体育の面を疎かにして、勝負に勝つ事ばかりが表に出て本来の体育教育の面が疎かになっているのです。平たく言えばスポーツの世界の優先順位に武道の奥深い理合いの追求や鍛錬はまだまだ含まれて居ません。
当然理合を含めても構いませんがルール内の勝つと言うテクニックを追求する面とは相容れない事が多すぎます。
本物の理合を身に付けたければ、勝負のルール内の試合とは全く別物と最初から理解して始めるのが大事です。何らかの理合の習得の為に、先人が考えた前提条件を設ける事が必要と成ります、これが形稽古の中に含まれています。この前提条件が何かを考えるのは、それぞれ学んで来た、師、理念、思想、既知の稽古法、等々によりまた差異が出ます。初伝しか習っていない者と実際に体に染み込むレベルで奥伝まで教わった者では異なるのは当然です。また、身近に奥伝者が居ても、自身は全く出来ないそのレベルに近づいておらず技量は初心者なのに口先だけと評論家レベルでは古参と言う弟子も多数存在します、研究者やその人の信望者や単なるファンが弟子には混在します。
これは単純に長い間その世界に身を置いているだけで技量の向上の無い者であったり、実は師の役をされている者や指導者と呼ばれている者が、かなり技量や知識が未熟なまま、その地位や名前をもらっている事も有り、初心者向けの悪しき稽古方があたかも全ての様に伝えられている理由です。
一番多いの誤った継承は、師が年老いて体の自由がままならなくなり、その時の世話をした最後の弟子とかが、秘伝口伝を密かに伝えられて跡継ぎに成った等です。
それぞれの分野で当たり前過ぎる前提の稽古量や思慮の有る稽古を積んで居ない者では何も出来無いのはどんなスポーツ、どんな武道でも明白です。何事も最低限の修行が有ってこそ、特に古武道ではその上に自得の努力を継続して、あるレベルの悟りの無い者には本物は伝わっていません。
口先だけの説明は所詮、言葉だけです。その様に老いた時に乱発した跡継ぎや、後継はほぼ眉唾物で、武道は前提条件有りきですが所謂立会えば直ぐに露呈します。あるレベルの武道家は戦わなくても良いのですが、構えて立会えば、大東流の場合は相手の手をシッカリと捕り、構えれば理解されます。
中説明が長くなりましたが、どの分野でも初心者、初級、中級、上級、その中でもまだ細く分類出来、そこに合わせた説明や稽古法を師が施しています。ですのでその表面通りだとそのレベルに有った稽古法なのです。初級者向の弟子には初級の技や説明、中級の弟子には中級の説明、高いレベルなら高いレベルに説明するか例えやヒントに奥深い物を含めているのです。ただしそこには本当は深い真実を埋め込んでいる事が多々有ります。
形稽古と言えども武道を標榜するならば、受け手に何某かの意味の有る攻撃力は必要です。それを欠落させると武道とは離れていきます。
日本の古武道の場合は、やはり日本刀による形が基本かと思います。当然成立時期、要件により、相手が槍、薙刀、杖、棒、はたまた銃剣までにされる所も有るでしょう。柔術では相手も飛び道具以外の武器を持つ可能性があり、その他は素手の相手も考えていくと言うのが自然な考え方に思えます。
前段説明が、長くなりましたが、古武道の流派の突き技に対する理合を習得したければ、受け役は日本刀で水月や喉元を突く形でしかも出来るだけ剣で突き刺す形式を想定しての稽古法が必須です、前に長々と書いた攻撃意欲の無い敵や、猪突猛進の敵は一般的な想定外なので、敵意有る範疇の攻撃方法で、現代格闘技のパンチの練習を混在させない事が理合習得では必要です、若しくは本来の理合習得とは異なりますが常にパンチを受けたりさばく稽古をするならばこれは格闘技練習としては意味が有ります、私は古武道理合習得には遠廻りなのでお勧めはしません。
古武道の刀に対する不利な形はまず小太刀で意味理合を考え、その次に素手でも剣的な攻撃をしてもらい素手で対処する理合いを考え、それを習得向上させ、その後に応用として現代スポーツ的な格闘技の様な攻撃に対する技を稽古すれば古武道をいかした近代武道としての意味は有ります。遠廻りで早く自由稽古したい者にはまどろっこしいですがここまでのレベルに本当に来てから自由稽古に入るのが正しいでしょう。
近代スポーツ論や他の格闘技論を入れずに地道に古武道理合習得をするのが、剣の理合を会得する早道と成ります。