古武道の稽古 相撲も含めた古流の鍛錬、稽古、乱取とはどう考えれば?
ただ相撲は日本の古武道にも分類される事もありますので、古武道とは似た部分も有ると想像されます。表向に伝わる鍛錬方法は、四股を踏む、テッポウを行う、摺足で進む。後はぶつかり稽古や、開脚や、転がし続けられる、そしてその後の実戦的な練習がある様です。考え方としては、鍛錬方法と乱取り稽古が有り、形稽古が余りハッキリとは見られません。
技は本来何処で身に付けるのか不思議な基礎鍛錬練習しかしません。対面でも基本は相手を押すだけから開始され、中には上位の番付でも押すだけに等しい技しか出来無い力士も存在します。
相撲は歴史上で素手でしか戦わない、土俵から出ると負け、拳での攻撃は不可、髪の毛を掴む事も不可、脚で蹴ってたおすも不可、等のルールが存在します、その為にルール外の攻撃に対しての防護、や対抗技は失伝していった可能性が有ります。ただ非常に数少い鍛錬で数多くの技を身に付けていかれるのは結果からみてもあきらかです。乱取りから先輩の様々な技を体感で自得されるのか?技数の為に他の門下に出稽古する知恵が含まれているのかも知れません。
この様な例から見てみると、日本の古武道は本来は数少い稽古しかなく、その後にそれぞれの形稽古を繰返し繰返し体が無意識でその動きになる迄染み込ます物とみえます。
浅薄な者はよく形は戦闘時によく頻出するカタチを集めた物とか、統計的に攻撃がよくされて来る物を集めたと言う、まことしやかな説が横行していますが、これは全くその意味も無いとまでは言いませんが、あくまで二次的な目的と捉えるのが、前述した相撲を例とする日本の古武道の稽古方法とみなされるでしょう。形稽古に鍛錬方法が混じっている流派や個人的な差もある様ですが、形稽古は身体造りと無意識な流派の動きの訓練です。その為形稽古には体の使い方の目的で基本形の中には一見不自然な物が含まれていたりするのです。その形を力み無く、咄嗟には無意識で、身体の内部の様々な感覚を使うと言う目的の為に、形が存在すると考えれば良いでしょう。
流派には特色が有り長剣を使う流派、短剣を使う流派、杖を主に使う流派、槍を主に使う流派、等では本来少しづつ異る部分も有ると思われます。その様な個性的な事、他流派と比較しての優劣では無く、日本の古武道の共通項を見つけた鍛錬が良いでしょう。相撲等でも何度も何度もヘトヘトになる迄転がされる練習は硬い土俵で投げられてもこかされても、怪我をしない受身を無意識に出来る体を作っているのはあきらかです。同様に攻撃にも基本に成る体の使い方を芯から可能にする稽古方法が形稽古に有り、それが可能なからだに成れば、同時にその流派の剣の使い方も形や、振り方、角度に含まれており、その真の目的の剣が使えるのです。
小手先の動きや、剣の角度や、返し、外見に見えている所だけ真似ても、似た非なる物と成るでしょう、オタクが空手やカンフーの形態模写しても、ほぼ力の無い突き蹴りと同様です。
大東流は初伝百十八ケ条と言われてますが、これはある程度マスターした人に出していた伝書です。これをもってそく形稽古ですは無理が有ります、余りにも他流派に比較して数が多いのです、あくまで何段階かの応用を含むと考えれば整理が出来ます。
これも私的な判断ですが、武田惣角師が話していた、若しくは周りが伝えて来た話を何処まで信用するかにより判断が異なります。多くの江戸時代迄の流派も様々な伝えが有りますが、中には本流が途絶え、支流や弟子筋しか、実際には残って居ない流派も多いでしょう。適当に有名な所の支流だとか、そこからの分派や、さらに発展したのが当流派で有ると声高に言って、武道力が有り何らかかの納得させられる物を持っていれば、名前を残せて来たと思えます。良く言えば、自流を立てるまでに習ったり、真似たりして、影響を受けた所は遠祖だと言っても嘘には成りません。著名な二天一流等も流祖の宮本武蔵は全く他の流派を学んだ事も無いのでは無く、幼少から父親に習った素養とか、その後の実戦出培ったと言いながら、他流派を見聞している模様は小説等でも表されてます。
歴史とか伝承の系譜は余り信憑性も無く、また技術の完成度が現実的に高ければ大した問題点では無く、技術の方が大事では無いかと思えます。平たく言いますと古い時代から続いて居るとは確証はありませんし、技術面からは対した事はあまりありません、関節技、関節を絡めて抑えつけたり取り押さえる技は何等かかの伝わりが有った可能性は有ります、しかし柔術、合気柔術、合気の術に関しては武田惣角師がかなり発展させたのは間違い無い様です。
古武道の範囲も様々論が有りますが、江戸時代迄に成立した流派をさす考えに基づきますと、武田惣角師がほぼ完成していた技は江戸時代とみなされます。大東流と言う名称はもしかするとかなり後期、昭和に成ってからの可能性も否定出来ませんが、実態の技や技術は江戸時代末迄に成立していると考えられます。
この様に考えますと大東流合気柔術は武田惣角師が伝えた体術部分で有り、その様々な技術は日本古来の剣術、主に名乗って居たのは小野派一刀流で直心影流剣術も習っていたと明記されてます。
様々な説明で惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学び、江戸に出て直心影流剣術の榊原鍵吉の内弟子になった、と有ります。
この辺りからの経歴でも想像出来るのは、基礎鍛錬で行って来ているのは、相撲、流派問わず剣術に共通する鍛錬しか武田惣角は行っているとは思えません。現代と違い余暇の過ごし方や、時間の過ぎ方、移動時間、様々考えても、基本武田惣角の鍛錬方法は相撲関連と剣術関連と見なすのが妥当では無いでしょうか?
大東流合気柔術の形稽古は技数からしても多すぎ不自然な事に成ります。おそらくは、武田惣角師が指導したり弟子にされた者を見ると、何等かかの武道経験者ばかりです、免許皆伝の久琢磨師は相撲の実力者でした。他の高弟も剣術、柔術、柔道(昔の格闘技色も強い柔道)、等々の武道家に行わせている稽古が技を掛合う形稽古ですが、かなり応用が含まれていると考えます、飽きさせない工夫と技を簡単に取られない為でしょう。
此処から想像しますと、我々現代人は昔の武術家とは違います。何が基礎鍛錬で、次にしないと駄目な形稽古はどの様な物になるかを、整理して効率良く学ぶ必要が有ります。
情報公開が広まっている現代でも、武道や習い事では、矢張り全ては外見からは見えない事も有り、口伝えや一緒に何かを行っているかでわかる物も多々有ります、先代世代は説明しない世代なのでその辺りも含めて、正しい考証の上の推論が要りますが、基礎鍛錬は平たくは丹田を鍛える!
そして特定の流派に偏らない剣術の共通的な稽古方法の中身を吟味する事が正しい大東流合気柔術の習得につながると思います。
多くの合気系各派に取り入れられている数を行なう練習方法や、大東流は技数が凄いと、デフォルメされ過ぎた形式的な形の技を漫然と繰返しても本物の会得には遠い道かと感じます。それは初伝百十八ケ条の理合が抜けた形稽古では、古流の形稽古には成って居ない為、形の中で教える事を深く考察しない者には宝の持ち腐れでしょう。
受け手は剣で切る打込み、武器を取らさない抑え、体を制する服装のつかみ、同時にスキだらけに成らない攻撃体制が必須です。その上での、順序よい攻撃から、押しが強い応用、引きが強い応用、等に分けて行なう。馬鹿な乱取りや、手順にあえて逆らう攻撃も意味無い稽古方法でしょう。