古武道における形の考え方としては、様々論が有るでしょうが、守破離と言われるように、まず守であろうと考えます。
「守」の段階にあるときは、自分を押し殺してかたを学ぶことに専念しましょう。
「破」の段階にあるときは、思い切ってこれまでの自分の枠を飛び出してみましょう。
「離」の段階にあるときは、心を鬼にして師から離れましょう。ただし離れるの意が浅すぎるのが現代人の情けないところです、子供理屈の離れると言う言葉では有りません。
現実は中々守もままならない者が、解ったつもりで一派をたてたり独立まがいな事をするものです。
形を学ばずは形無し、形をしっかり学ぶ、その上で形を破れば素晴らしい物が出来る可能性がある。
まだまだ不十分な段階で、勝手に自分が道を極めたとか自分が一番等と天狗となり、愚かにも歩むべき道を歩かずに、他の自分にとって楽な道を探してきて、あたかも本物を自分が極めたような振りを周りに喧伝するなど、問題外の行ないである。
残念な事には、そういうおこないをするのが、過去に功績が有ったり、一面では形を極めて行っている様に見えていたりする者、まだ完全では無いのが自分で極めたと思っている者だったりする事です。
本当はまだ中途な者に周りに愚衆が集まり、その者達の様々な欲望、名誉、地位、お金、等々に振り回され、冷静に考えれば小さな名誉、狭い地位、些少なお金なのですが、少し頭が出た者に既得権を見いだし、自らは己の努力もせず何の才能も無いその世界に片足を突っ込んでいるだけの脇道にそれた者が、功績者にたかる構図が出てくるのはどの世界、どの時代もよく有る事でしょう。
途中までは様々功績を積み、正道を歩きかけていたのが、本人の心の隙や慢心から本道を外れていき、形無しを応用だとかの詭弁を弄して、老醜を晒すのは関係者以外から見ても寂しい限りでしょう。
実る程頭を垂れる稲穂かな!はポーズだけでは駄目で、その心根が正しからずだと道は遥かに遠い物なのでしょう!
地位、名誉、お金は些少でも自分から望んでいると誤りの方向に進むものです。本人が望まなくとも勝手にその人についてきている地位、名誉、少しのお金は相応しく映ります。
よくよく心得て、己の心と向き合って精進を続ければ形の先に有る真の道が垣間見えるのでしょう。
そうすれば破が本当の応用であり、出藍の誉の様により発展した離に出会えるのではと思えます。