サビアンシンボルは
射手座12度「旗が鷲へと変わる。鷲は夜明けを祝福する雄鶏へと」
このシンボルのキーノート(基調)は
「先行する表明に敏感な精神による、ニューエイジの大きな象徴の精神的な浄化とプロモーション」
きょうはどんな日?
時代も地域も規模もさまざまである多種多様な知識を集積し有効に利用することと、知り得たものごとの啓蒙における責任意識との、深刻な必要性を自覚しておきたいときです。
独立で歩く際の行動原理として〈身体知〉を頼みにし、また同時に知性偏重からの脱却を図りバランスをとっておきたいときというのがきのうでした。過度の左脳的なあり方に対抗して肉体性をぶつけていく。そうした発想自体さえ左脳的なものであるとしても積極的に打ち出してみよう。体の趣くままに行動し体に染み込んだ経験を頼りにしてみようという具合でしたが、自分なりのバランスはとれたでしょうか。きょうはさらに知のあり方についてかんがえてみましょう。
「頭でっかちは駄目だ、体を動かせ!」そう言葉で伝えることには一種の矛盾が含まれていますし限界があると言わざるを得ないでしょう。武道家であり映画俳優でもあるブルース・リーは「Don't think, feel!(かんがえるな、感じろ!」という言葉を発したとされていますが、武術を身につける際には理論が先行するよりは格闘の現場で体を通じて学ぶことのほうがきわめて有効であるのは間違いないでしょう。そして、こうした名言の類はしばしば語録としてまとめられますが、それが人類全体にとっていかに有益な財産であるとしてもアーカイブのなかに溜め込まれたまま読まれることもなく、また読まれたとしても日常生活のなかでそれらの言葉が実践され生きられることがなければ、その言葉はなにひとつ新たな意味を生み出すことはないでしょう。シンボルに描かれているのは知の集積と配分のプロセスです。旗は一般的に一国の象徴です。鷲はアメリカの象徴ですが、かの国が国際社会において占める地位はきわめて優位です。それをめぐる問題や異論はひとまずさておき、ここでは民主主義とそれに基づく制度が人間の進化にとって言わば揺りかごの役割を果たし、超国家的に働いている様子が示されています。つまり個人や共同体の知識がより大きな枠組のなかに〈集合知〉として集積され、民主的に利用されていくさまが前半で示されているというわけです。かたや雄鶏は新しい日の出を告げる存在です。鷲は非常に空高く飛行することが知られていますが、これはスピリチュアルな意志と力の象徴でもあります。空高く飛行するがゆえに鷲はいち早く日の出を知り得る最初の生物であるとも言えますが、しかしどんなに高邁な精神があって高等な知識を身につけていようとも、それを人に伝えるためには高度を下げて降りなければなりません。鷲が雄鶏へと姿を変え日の出を告げるとき、彼は自分の朗々たる鳴き声が新しい一日のはじまりに対して責任があるのだということを言いきかせています。知識の伝達における責任がここでは示されているのです。インターネットの普及により知の集積も配分も伝達も共有もきわめて容易になっている現代ですが、まとめること、利用すること、伝えることについて、これを機にぜひあらためてかんがえてみてください。その一方で怠惰な先入観にとらわれたりまるで確証のない事実無根のクレームを訴える傾向が見られるときでもあります。知り得たものごとは正しく有益に使いましょう。
サビアンシンボルは
射手座11度「古代の神殿の左側の部分で、人間の体に似たかたちの容器のなかでランプが燃える」
このシンボルのキーノート(基調)は
「知性と客観的な意識にかかるストレスの平衡を保つために近代の思想家たちが推奨してきた〈身体への回帰〉の価値」
きょうはどんな日?
独立で歩く際の行動原理として〈身体知〉を頼みにし、また同時に知性偏重からの脱却を図りバランスをとっておきたいときです。
教育を受けての成長を劇的に演出して達成を既成事実化し、そして〈強いられた成長〉によって真の自立を促すときというのがきのうでした。教育の成果がどれほどかはさておいて、できていようとできていまいと、できていることにしてしまう。なかば強制的に〈仕組み〉になじませてしまうことで独立へ向かわせるという具合でしたが、おもいきった行動はできたでしょうか。きょうは体の趣くままにやってみましょう。
おとといの「母親が小さな子どもの手を引いて急な階段を一歩ずつ上る」は母親が主語ですから教育を与える側に視点が置かれていました。それゆえにきのうも与える側が受ける側を自立させる色あいとなっていましたが、言うまでもなく受ける側の立場もありますし自分がそういう状況になる場合もあります。いずれにせよもう次のチャンスはないかもしれないとここで踏ん切りをつけて行動を起こすことが要点でした。半分無理やり立たせて歩かせる、あるいは自分を奮い立たせて歩き出すそのときに、きょうは自分の身体感覚をなによりも大切にしていきましょう。シンボルに描かれているのは非常に奇妙な光景ですが、左というのはロゴスの象徴です。人間の脳は多くの場合左側に言語中枢がありそちらが優位な半球となっているために、論理的な思考は左脳的と呼ばれもしますが、ここでは左側がそのように象徴的に扱われています。神殿とは崇拝の対象ですが、たいていは左右対称に建造されています。礼拝の際に片方だけを拝むというのは通常はあまりないことですが、ここで示されているのは論理的思考の崇拝とそれに対するアンチテーゼです。炎は精神の象徴でありそれが肉体のなかで燃えているというイメージが描かれていますが、右側も拝んでバランスをとろうというのではなく左側において肉体の礼賛が提示されているというわけです。とはいえそれも一応はバランスをとる働きを意図したものです。過度の左脳的なあり方に対抗して肉体性をぶつけていく。キーノートにあるようにそれすら思想家の頭のなかの出来事であるとしても、きょうはそれを積極的に打ち出してみてください。体の趣くままに行動するので構いませんし、迷ったり行き詰まったりした場合は体に染み込んだ経験を頼りにしましょう。一人で歩きはじめたばかりにしても、もっているものはすでにじゅうぶんにあるはずです。それをもとに存分に歩きまわってください。無分別で思慮のない試行錯誤を繰り返したのちにアイデアの完全な混乱を引き起こす傾向が見られるときでもあります。いくらなんでも方向づけをして歩きましょう。
射手座11度「古代の神殿の左側の部分で、人間の体に似たかたちの容器のなかでランプが燃える」
このシンボルのキーノート(基調)は
「知性と客観的な意識にかかるストレスの平衡を保つために近代の思想家たちが推奨してきた〈身体への回帰〉の価値」
きょうはどんな日?
独立で歩く際の行動原理として〈身体知〉を頼みにし、また同時に知性偏重からの脱却を図りバランスをとっておきたいときです。
教育を受けての成長を劇的に演出して達成を既成事実化し、そして〈強いられた成長〉によって真の自立を促すときというのがきのうでした。教育の成果がどれほどかはさておいて、できていようとできていまいと、できていることにしてしまう。なかば強制的に〈仕組み〉になじませてしまうことで独立へ向かわせるという具合でしたが、おもいきった行動はできたでしょうか。きょうは体の趣くままにやってみましょう。
おとといの「母親が小さな子どもの手を引いて急な階段を一歩ずつ上る」は母親が主語ですから教育を与える側に視点が置かれていました。それゆえにきのうも与える側が受ける側を自立させる色あいとなっていましたが、言うまでもなく受ける側の立場もありますし自分がそういう状況になる場合もあります。いずれにせよもう次のチャンスはないかもしれないとここで踏ん切りをつけて行動を起こすことが要点でした。半分無理やり立たせて歩かせる、あるいは自分を奮い立たせて歩き出すそのときに、きょうは自分の身体感覚をなによりも大切にしていきましょう。シンボルに描かれているのは非常に奇妙な光景ですが、左というのはロゴスの象徴です。人間の脳は多くの場合左側に言語中枢がありそちらが優位な半球となっているために、論理的な思考は左脳的と呼ばれもしますが、ここでは左側がそのように象徴的に扱われています。神殿とは崇拝の対象ですが、たいていは左右対称に建造されています。礼拝の際に片方だけを拝むというのは通常はあまりないことですが、ここで示されているのは論理的思考の崇拝とそれに対するアンチテーゼです。炎は精神の象徴でありそれが肉体のなかで燃えているというイメージが描かれていますが、右側も拝んでバランスをとろうというのではなく左側において肉体の礼賛が提示されているというわけです。とはいえそれも一応はバランスをとる働きを意図したものです。過度の左脳的なあり方に対抗して肉体性をぶつけていく。キーノートにあるようにそれすら思想家の頭のなかの出来事であるとしても、きょうはそれを積極的に打ち出してみてください。体の趣くままに行動するので構いませんし、迷ったり行き詰まったりした場合は体に染み込んだ経験を頼りにしましょう。一人で歩きはじめたばかりにしても、もっているものはすでにじゅうぶんにあるはずです。それをもとに存分に歩きまわってください。無分別で思慮のない試行錯誤を繰り返したのちにアイデアの完全な混乱を引き起こす傾向が見られるときでもあります。いくらなんでも方向づけをして歩きましょう。
サビアンシンボルは
射手座10度「金髪の幸運の女神の芝居がかった表現」
このシンボルのキーノート(基調)は
「野心的な人物に提供するものの偉大さを脚色する社会の努力」
きょうはどんな日?
教育を受けての成長を劇的に演出して達成を既成事実化し、そして〈強いられた成長〉によって真の自立を促すときです。
社会や文化において未熟な存在を教育的に指導し日常の出来事においてすべての個人的な挑戦に効果的な反応ができるときというのがきのうでした。自然の理のなかで自助あって助力を受け成長するのとは違い、社会や文化の仕組みのなかで教育を受けることによって達成される成長がある。それに関心をおいて未熟な存在への教育的な配慮を心がけてみようという具合でしたが、教育的な振る舞いはできたでしょうか。きょうはその結果を扱いましょう。
階段は社会や文化の仕組みを象徴するものであり、それを上ることは登山とは違うのだということをきのう述べました。自然への挑戦とは異なって、人間がみずからつくり出したものに未熟な存在を迎え入れる際には適切な指導が必要になる。言い換えれば大人が子どもに、強者が弱者に対して果たさなければならない責務が示されていました。そうしたきわめて人間的な営みがきのうのテーマ〈教育〉の背景にはあるわけです。特定のなにかを行う場合にはしかるべき手順や作法を踏まえたやり方をしなければならない、なぜならその特定のなにかは人間がつくり出したものだから人間がそれを教えて導く必要があるのだ、という理屈です。とりも直さず教育すらも実に人間的な営みです。この成長の〈人間的な、あまりに人間的な〉道のりに沿って前進しようという活力が、このシンボルのつながりでは言及されています。シンボルに描かれている幸運の女神とはずいぶんと漠然としていますが、もっぱらローマ神話のフォルトゥーナがモデルであるとされています。擬人化の際には豊かな前髪がありながらも後ろ髪がない女性の姿をとっており、チャンスは過ぎ去ったあとではつかむことができないことをたとえています。手順や作法を踏まえるよう教育したのであれば、それが達成されたかを確認し評価しなければなりません。しかし教育の成果がどれほどあがったか、実のところそれを計ることには、きょうは大きな意義はありません。どのくらいできたかはこの際さておいて、できていようとできていまいと、できていることにしてしまうことがきょうの課題です。いささか乱暴ながら、そのように〈強いられた成長〉を既成事実としてつくり上げることによって、独立を促すことがきょうのテーマです。これを逃したら次はもうないかもしれないというくらいの切羽詰まった様子を言わば演出して、なかば強制的に〈仕組み〉になじませてしまうというわけです。重ねて述べますが、この目的は独立を促すことです。いまや「両親に励まされて歩くことを学ぶ小さな子ども」は、本当に自立し一人で歩くときにきているのです。価値のない結末へ向けて首尾一貫して迂回した努力を展開する傾向が見られるときでもあります。屈折はほどほどにして目の前にあるものをつかみとりましょう。
射手座10度「金髪の幸運の女神の芝居がかった表現」
このシンボルのキーノート(基調)は
「野心的な人物に提供するものの偉大さを脚色する社会の努力」
きょうはどんな日?
教育を受けての成長を劇的に演出して達成を既成事実化し、そして〈強いられた成長〉によって真の自立を促すときです。
社会や文化において未熟な存在を教育的に指導し日常の出来事においてすべての個人的な挑戦に効果的な反応ができるときというのがきのうでした。自然の理のなかで自助あって助力を受け成長するのとは違い、社会や文化の仕組みのなかで教育を受けることによって達成される成長がある。それに関心をおいて未熟な存在への教育的な配慮を心がけてみようという具合でしたが、教育的な振る舞いはできたでしょうか。きょうはその結果を扱いましょう。
階段は社会や文化の仕組みを象徴するものであり、それを上ることは登山とは違うのだということをきのう述べました。自然への挑戦とは異なって、人間がみずからつくり出したものに未熟な存在を迎え入れる際には適切な指導が必要になる。言い換えれば大人が子どもに、強者が弱者に対して果たさなければならない責務が示されていました。そうしたきわめて人間的な営みがきのうのテーマ〈教育〉の背景にはあるわけです。特定のなにかを行う場合にはしかるべき手順や作法を踏まえたやり方をしなければならない、なぜならその特定のなにかは人間がつくり出したものだから人間がそれを教えて導く必要があるのだ、という理屈です。とりも直さず教育すらも実に人間的な営みです。この成長の〈人間的な、あまりに人間的な〉道のりに沿って前進しようという活力が、このシンボルのつながりでは言及されています。シンボルに描かれている幸運の女神とはずいぶんと漠然としていますが、もっぱらローマ神話のフォルトゥーナがモデルであるとされています。擬人化の際には豊かな前髪がありながらも後ろ髪がない女性の姿をとっており、チャンスは過ぎ去ったあとではつかむことができないことをたとえています。手順や作法を踏まえるよう教育したのであれば、それが達成されたかを確認し評価しなければなりません。しかし教育の成果がどれほどあがったか、実のところそれを計ることには、きょうは大きな意義はありません。どのくらいできたかはこの際さておいて、できていようとできていまいと、できていることにしてしまうことがきょうの課題です。いささか乱暴ながら、そのように〈強いられた成長〉を既成事実としてつくり上げることによって、独立を促すことがきょうのテーマです。これを逃したら次はもうないかもしれないというくらいの切羽詰まった様子を言わば演出して、なかば強制的に〈仕組み〉になじませてしまうというわけです。重ねて述べますが、この目的は独立を促すことです。いまや「両親に励まされて歩くことを学ぶ小さな子ども」は、本当に自立し一人で歩くときにきているのです。価値のない結末へ向けて首尾一貫して迂回した努力を展開する傾向が見られるときでもあります。屈折はほどほどにして目の前にあるものをつかみとりましょう。
サビアンシンボルは
射手座9度「母親が小さな子どもの手を引いて急な階段を一歩ずつ上る」
このシンボルのキーノート(基調)は
「どんな社会的状況においても、社会がその構成員に解決を要求するような問題の扱いについて、進歩していない者を支援する必要」
きょうはどんな日?
社会や文化において未熟な存在を教育的に指導し日常の出来事においてすべての個人的な挑戦に効果的な反応ができるときです。
逸脱した情熱が冷却され、自分の心の内奥に自分自身の本質的な変性が起こってきている胎動を感じとれるときというのがきのうでした。先の二日に見られた、人間存在の成長の基本的なリズム、感情を刺激するようなより個別化された個人的な体験への反応、この二つの統合として内面に確実な変化が生じてきている。まずはそれを感じとり新しい自分の可能性を見てとろうという具合でしたが、差し当たり感じとれたものはあったでしょうか。きょうは人に教えるということを意識してみましょう。
変化が生じつつあるのを感じるとは言えど、力が湧いてくるとかなんらかの感情がこみ上げてくるとか体感的にわかりやすい変化があればつかむことも容易でしょうが、そうでなければわざわざ自分を見つめるという作業も必要になってきます。あるいは特段意識せずに起こした行動が自分でも〈意外〉なものであるなど、変化が直接行動に表れて出てくるということもあったかもしれません。いずれにせよその変化を内に秘めてまた新たな自分を生きはじめることになりますが、そこできょうのテーマは教育になります。シンボルに描かれている階段とは社会や文化の仕組みを象徴するものです。登山道は人間が切り拓き整備したものですが、少なくとも山に登るという行為は自然に対しては挑戦的なものであり重力に抗うものでもあります。しかし階段は人間が建築した何階建てかの建物のなかで上下の移動に用いるものであり、それはまったくもって〈自然〉なものではないのです。人間がみずからつくり出した社会や文化において、未発達でまだ成熟していない存在に対し、その仕組みに参入させる際には適切な指導が必要になるのだということがここでは示されています。それが教育です。「両親に励まされて歩くことを学ぶ小さな子ども」で示されたことは自助あってこその周囲からの助力とそれによる自分の成長ですが、ここで示されているのは社会や文化の側からの保護的で積極的な関与、すなわち教育による成長というわけです。そしてこのシンボルの主語は母親ですから、どちらかと言えば教育を受ける側よりは与える側のほうに視点が置かれています。日曜日ですので仕事上などでは難しい場合もあるかもしれませんが、未熟な存在への教育的な配慮を心がけて行動してみてください。にも関わらず一方では自分自身が未熟な行動や反応をしてしまう傾向が見られるときでもあります。「おたがいさま」でよいのかよくかんがえてみましょう。
射手座9度「母親が小さな子どもの手を引いて急な階段を一歩ずつ上る」
このシンボルのキーノート(基調)は
「どんな社会的状況においても、社会がその構成員に解決を要求するような問題の扱いについて、進歩していない者を支援する必要」
きょうはどんな日?
社会や文化において未熟な存在を教育的に指導し日常の出来事においてすべての個人的な挑戦に効果的な反応ができるときです。
逸脱した情熱が冷却され、自分の心の内奥に自分自身の本質的な変性が起こってきている胎動を感じとれるときというのがきのうでした。先の二日に見られた、人間存在の成長の基本的なリズム、感情を刺激するようなより個別化された個人的な体験への反応、この二つの統合として内面に確実な変化が生じてきている。まずはそれを感じとり新しい自分の可能性を見てとろうという具合でしたが、差し当たり感じとれたものはあったでしょうか。きょうは人に教えるということを意識してみましょう。
変化が生じつつあるのを感じるとは言えど、力が湧いてくるとかなんらかの感情がこみ上げてくるとか体感的にわかりやすい変化があればつかむことも容易でしょうが、そうでなければわざわざ自分を見つめるという作業も必要になってきます。あるいは特段意識せずに起こした行動が自分でも〈意外〉なものであるなど、変化が直接行動に表れて出てくるということもあったかもしれません。いずれにせよその変化を内に秘めてまた新たな自分を生きはじめることになりますが、そこできょうのテーマは教育になります。シンボルに描かれている階段とは社会や文化の仕組みを象徴するものです。登山道は人間が切り拓き整備したものですが、少なくとも山に登るという行為は自然に対しては挑戦的なものであり重力に抗うものでもあります。しかし階段は人間が建築した何階建てかの建物のなかで上下の移動に用いるものであり、それはまったくもって〈自然〉なものではないのです。人間がみずからつくり出した社会や文化において、未発達でまだ成熟していない存在に対し、その仕組みに参入させる際には適切な指導が必要になるのだということがここでは示されています。それが教育です。「両親に励まされて歩くことを学ぶ小さな子ども」で示されたことは自助あってこその周囲からの助力とそれによる自分の成長ですが、ここで示されているのは社会や文化の側からの保護的で積極的な関与、すなわち教育による成長というわけです。そしてこのシンボルの主語は母親ですから、どちらかと言えば教育を受ける側よりは与える側のほうに視点が置かれています。日曜日ですので仕事上などでは難しい場合もあるかもしれませんが、未熟な存在への教育的な配慮を心がけて行動してみてください。にも関わらず一方では自分自身が未熟な行動や反応をしてしまう傾向が見られるときでもあります。「おたがいさま」でよいのかよくかんがえてみましょう。
サビアンシンボルは
射手座8度「大地の奥深いところで新しい元素が生じつつある」
このシンボルのキーノート(基調)は
「人間の精神生活のまさに実体を浄化し変形する錬金術的な火」
きょうはどんな日?
逸脱した情熱が冷却され、自分の心の内奥に自分自身の本質的な変性が起こってきている胎動を感じとれるときです。
感情面での発達を求める表れとして、社会的な価値観や集団の理念とは離反して個人的な関心と愛の理念の追求に向かうときというのがきのうでした。心のあり方として、こう言ってよければ成長の姿の一つとして、社会に背を向けて愛に生きることの意義と可能性が示されている。そうした志向によって〈感情的な再誕〉がもたらされるという具合でしたが、心ときめくような体験はあったでしょうか。きょうは落ち着きをめざしましょう。
おとといの「クリケットの試合」に見られたような、集団性の意識や社会的な価値への関心に基づいての、秩序を重んじ規則を厳守する行動。それに対してきのうの「キューピッド」の矢に射抜かれたような激しい恋愛感情の高まりからくる行動。後者は前者への反動とも呼べるものですが、それを通じて得られるものはひとえに発達であり成長であるのです。きょうは両者の統合段階に進みます。人間存在の成長の基本的なリズム、感情を刺激するようなより個別化された個人的な体験への反応、この二つの統合として内面に確実な変化が生じてきているはずです。シンボルに描かれているのは一見科学的なようであって非科学的な、不思議でファンタジックとさえ言えるような光景です。元素は元素ですからそれが生じたり、ましてやなんらかのかたちをとって現れるというのはおかしなことですが、比喩としてそのくらいの大きな変化が自分の天分の最も本質的な部分に生じつつある様子が示されています。自分が自分でなくなるほどの強烈な体験というものはなかなかにありそうでないものですが、最も近いところであり得るものはやはり恋愛です。それを経たいま、〈感情的な再誕〉ののちに生まれる新しい自分の可能性がここに示されています。そこまでの強度がないとしても、たとえばごく日常的なものごとに対して環境の変化を与えるなどの工夫によって、まったく異なるものへと変質させることが可能になるときであると言えます。あれこれと試してみるのもよいでしょう。内面に執拗な混乱が生じやすい傾向が見られるときでもあります。きのうの体験が原因であれば安定していくのを静観するしかありませんが、以前から引きずっている要因があるのならそれこそ環境を変えてみましょう。
射手座8度「大地の奥深いところで新しい元素が生じつつある」
このシンボルのキーノート(基調)は
「人間の精神生活のまさに実体を浄化し変形する錬金術的な火」
きょうはどんな日?
逸脱した情熱が冷却され、自分の心の内奥に自分自身の本質的な変性が起こってきている胎動を感じとれるときです。
感情面での発達を求める表れとして、社会的な価値観や集団の理念とは離反して個人的な関心と愛の理念の追求に向かうときというのがきのうでした。心のあり方として、こう言ってよければ成長の姿の一つとして、社会に背を向けて愛に生きることの意義と可能性が示されている。そうした志向によって〈感情的な再誕〉がもたらされるという具合でしたが、心ときめくような体験はあったでしょうか。きょうは落ち着きをめざしましょう。
おとといの「クリケットの試合」に見られたような、集団性の意識や社会的な価値への関心に基づいての、秩序を重んじ規則を厳守する行動。それに対してきのうの「キューピッド」の矢に射抜かれたような激しい恋愛感情の高まりからくる行動。後者は前者への反動とも呼べるものですが、それを通じて得られるものはひとえに発達であり成長であるのです。きょうは両者の統合段階に進みます。人間存在の成長の基本的なリズム、感情を刺激するようなより個別化された個人的な体験への反応、この二つの統合として内面に確実な変化が生じてきているはずです。シンボルに描かれているのは一見科学的なようであって非科学的な、不思議でファンタジックとさえ言えるような光景です。元素は元素ですからそれが生じたり、ましてやなんらかのかたちをとって現れるというのはおかしなことですが、比喩としてそのくらいの大きな変化が自分の天分の最も本質的な部分に生じつつある様子が示されています。自分が自分でなくなるほどの強烈な体験というものはなかなかにありそうでないものですが、最も近いところであり得るものはやはり恋愛です。それを経たいま、〈感情的な再誕〉ののちに生まれる新しい自分の可能性がここに示されています。そこまでの強度がないとしても、たとえばごく日常的なものごとに対して環境の変化を与えるなどの工夫によって、まったく異なるものへと変質させることが可能になるときであると言えます。あれこれと試してみるのもよいでしょう。内面に執拗な混乱が生じやすい傾向が見られるときでもあります。きのうの体験が原因であれば安定していくのを静観するしかありませんが、以前から引きずっている要因があるのならそれこそ環境を変えてみましょう。
サビアンシンボルは
射手座7度「キューピッドが人間の心のドアをノックする」
このシンボルのキーノート(基調)は
「ロマンチックな愛を熱望する個人の奮起」
きょうはどんな日?
感情面での発達を求める表れとして、社会的な価値観や集団の理念とは離反して個人的な関心と愛の理念の追求に向かうときです。
集団の結束を育てていくことの重要性から秩序を重んじ規則を厳守して行動することで最大限の能力発揮が期待できるときというのがきのうでした。チェスの一対一の対戦とはまた趣の異なる多人数のチームの対戦を通じて集団を意識した行動をしていく。前日までのセルフコントロールの延長としてルール遵守がなされそのうえでの能力開花が見込める。個人的な技能の向上だけではなく公正さと協同の精神も得られるだろうという具合でしたが、臆することなく挑戦できたでしょうか。きょうはまた方向性が反転します。
進化も成長も自分のためというなかで、それでもまるで独りよがりではないという程度にはバランスをとりつつやってきたというのがここしばらくの状況に通底しているムードです。きのうはむしろ自分への関心よりは集団を意識することのほうに重点を置いていました。しかし結果としては自分の能力発揮が最も効果的に果たされることになったわけです。ここでその是非は問うべきではありませんし、なんらかの価値判断を下す必要もありません。きょうは方向性が反転するとは言えども、ある意味これまで以上に最も純粋に自分への関心の追求を展開していくことが、許されるときでもあり求められるときでもあります。シンボルに描かれているのはローマ神話の恋の神です。ビーナスの子であり、弓矢をもった翼のある少年の姿をとっていることがよく知られています。その矢に射抜かれた者は恋心を生じるとされていますが、恋愛とは多くの場合に精神的な混乱を伴うものです。また一人で対象に恋い焦がれおもい悩むものでもあれば、一対一あるいは一対多の人間関係のなかに実に幸福なもしくは危機的な状況を引き起こすものであることもよく知られています。しばしば反社会的とまでは言わないまでも非社交的なものとして機能しかねないものであるそのような恋愛を、世間は眉をひそめて見ることになり社会は阻害することになる事例が数多くあることも、多くの人々が経験上も含めよく知っていることでしょう。恋愛を志向するということは、ここでは少なくともクリケットの試合に見られるような集団性の意識や社会的な価値への関心とは対極にあるものとして描かれています。その志向がもたらすものとは、精神的な混乱や危機的な状況があろうとなかろうと、あればそれを通じてより効果的に達成される〈感情的な再誕〉です。情緒の面で生まれ変わるような体験。そうなるかどうかは時と場合によるしかないのかもしれませんが、心のあり方として、こう言ってよければ成長の姿の一つとして、社会に背を向けて愛に生きることの意義と可能性がここに示されています。当たり前のことながら自己の高揚とタガが外れたような欲望の奔逸傾向が見られるときでもあります。とり返しのつかないような事態にならないように、それでいいのかよくかんがえてみてください。
射手座7度「キューピッドが人間の心のドアをノックする」
このシンボルのキーノート(基調)は
「ロマンチックな愛を熱望する個人の奮起」
きょうはどんな日?
感情面での発達を求める表れとして、社会的な価値観や集団の理念とは離反して個人的な関心と愛の理念の追求に向かうときです。
集団の結束を育てていくことの重要性から秩序を重んじ規則を厳守して行動することで最大限の能力発揮が期待できるときというのがきのうでした。チェスの一対一の対戦とはまた趣の異なる多人数のチームの対戦を通じて集団を意識した行動をしていく。前日までのセルフコントロールの延長としてルール遵守がなされそのうえでの能力開花が見込める。個人的な技能の向上だけではなく公正さと協同の精神も得られるだろうという具合でしたが、臆することなく挑戦できたでしょうか。きょうはまた方向性が反転します。
進化も成長も自分のためというなかで、それでもまるで独りよがりではないという程度にはバランスをとりつつやってきたというのがここしばらくの状況に通底しているムードです。きのうはむしろ自分への関心よりは集団を意識することのほうに重点を置いていました。しかし結果としては自分の能力発揮が最も効果的に果たされることになったわけです。ここでその是非は問うべきではありませんし、なんらかの価値判断を下す必要もありません。きょうは方向性が反転するとは言えども、ある意味これまで以上に最も純粋に自分への関心の追求を展開していくことが、許されるときでもあり求められるときでもあります。シンボルに描かれているのはローマ神話の恋の神です。ビーナスの子であり、弓矢をもった翼のある少年の姿をとっていることがよく知られています。その矢に射抜かれた者は恋心を生じるとされていますが、恋愛とは多くの場合に精神的な混乱を伴うものです。また一人で対象に恋い焦がれおもい悩むものでもあれば、一対一あるいは一対多の人間関係のなかに実に幸福なもしくは危機的な状況を引き起こすものであることもよく知られています。しばしば反社会的とまでは言わないまでも非社交的なものとして機能しかねないものであるそのような恋愛を、世間は眉をひそめて見ることになり社会は阻害することになる事例が数多くあることも、多くの人々が経験上も含めよく知っていることでしょう。恋愛を志向するということは、ここでは少なくともクリケットの試合に見られるような集団性の意識や社会的な価値への関心とは対極にあるものとして描かれています。その志向がもたらすものとは、精神的な混乱や危機的な状況があろうとなかろうと、あればそれを通じてより効果的に達成される〈感情的な再誕〉です。情緒の面で生まれ変わるような体験。そうなるかどうかは時と場合によるしかないのかもしれませんが、心のあり方として、こう言ってよければ成長の姿の一つとして、社会に背を向けて愛に生きることの意義と可能性がここに示されています。当たり前のことながら自己の高揚とタガが外れたような欲望の奔逸傾向が見られるときでもあります。とり返しのつかないような事態にならないように、それでいいのかよくかんがえてみてください。
サビアンシンボルは
射手座6度「クリケットの試合」
このシンボルのキーノート(基調)は
「集団の目標をテストする集団状況の技能の開発」
きょうはどんな日?
集団の結束を育てていくことの重要性から秩序を重んじ規則を厳守して行動することで最大限の能力発揮が期待できるときです。
自身の意志に従って高度に知的な達成が見込まれ、内面および外的な状況を知力によって制圧し安定させられるときというのがきのうでした。歩きはじめるという行動を起こすことは、人間が人間らしくいようという意志の表れである。そうしようと努力を経て自分をコントロールするからこそ衝突や悲劇的な状況を乗り越えることができるという具合でしたが、平和と落ち着きはもたらされたでしょうか。きょうは集団を意識しましょう。
通常は知覚することのできないものをとらえて、さらにはそれさえも管理下におくことを視野に入れているかのような趣すらフクロウには感じられましたが、実際にはそれほど大仰な展開にはならなかったかもしれません。古くから知恵の象徴であるにしても全知全能の神ではありませんし、知恵によって安定をもたらすことが可能であるのはそれこそ自然ではなく人間的な事象に対してでしょう。歩くことは重力に抗いあるいはそれを利用する行為ですが、もっぱら当面の課題は自分の体をどのように扱い動かすかということになります。おとといきのうで自分を律することにはじゅうぶんに馴染んでいるはずですから、きょうはそれを集団のなかで展開していきましょう。シンボルに描かれているのはイギリス古来の球技の試合です。どんなスポーツにもルールがありますしそれに則ることで試合は進行していきます。チェスは一対一の対戦ですがクリケットは11人一組のチームによる対戦です。盤上で〈対話〉するのとはまた勝手も違いますし自分がやるべきことや自分に求められていることも異なります。しかし、臆することなくぜひ挑戦していってください。セルフコントロールの延長にルール遵守とそのうえでの能力開花があるのです。そして試合を経て得られるものは個人的な技能の向上だけではなく公正さと協同の精神です。心して頑張りましょう。個人の美点について嘘偽りのあるひけらかしの傾向が見られるときでもあります。盛ったりハッタリは必要な場合もありますがフェアプレーでいくかどうかは自分の美と倫理次第でしょう。
射手座6度「クリケットの試合」
このシンボルのキーノート(基調)は
「集団の目標をテストする集団状況の技能の開発」
きょうはどんな日?
集団の結束を育てていくことの重要性から秩序を重んじ規則を厳守して行動することで最大限の能力発揮が期待できるときです。
自身の意志に従って高度に知的な達成が見込まれ、内面および外的な状況を知力によって制圧し安定させられるときというのがきのうでした。歩きはじめるという行動を起こすことは、人間が人間らしくいようという意志の表れである。そうしようと努力を経て自分をコントロールするからこそ衝突や悲劇的な状況を乗り越えることができるという具合でしたが、平和と落ち着きはもたらされたでしょうか。きょうは集団を意識しましょう。
通常は知覚することのできないものをとらえて、さらにはそれさえも管理下におくことを視野に入れているかのような趣すらフクロウには感じられましたが、実際にはそれほど大仰な展開にはならなかったかもしれません。古くから知恵の象徴であるにしても全知全能の神ではありませんし、知恵によって安定をもたらすことが可能であるのはそれこそ自然ではなく人間的な事象に対してでしょう。歩くことは重力に抗いあるいはそれを利用する行為ですが、もっぱら当面の課題は自分の体をどのように扱い動かすかということになります。おとといきのうで自分を律することにはじゅうぶんに馴染んでいるはずですから、きょうはそれを集団のなかで展開していきましょう。シンボルに描かれているのはイギリス古来の球技の試合です。どんなスポーツにもルールがありますしそれに則ることで試合は進行していきます。チェスは一対一の対戦ですがクリケットは11人一組のチームによる対戦です。盤上で〈対話〉するのとはまた勝手も違いますし自分がやるべきことや自分に求められていることも異なります。しかし、臆することなくぜひ挑戦していってください。セルフコントロールの延長にルール遵守とそのうえでの能力開花があるのです。そして試合を経て得られるものは個人的な技能の向上だけではなく公正さと協同の精神です。心して頑張りましょう。個人の美点について嘘偽りのあるひけらかしの傾向が見られるときでもあります。盛ったりハッタリは必要な場合もありますがフェアプレーでいくかどうかは自分の美と倫理次第でしょう。
サビアンシンボルは
射手座5度「老いたフクロウが大きな木の枝に一羽とまっている」
このシンボルのキーノート(基調)は
「無意識の要因とその操作に関しての澄明な認知に基づいた存在への、落ち着いた賢いアプローチ」
きょうはどんな日?
自身の意志に従って高度に知的な達成が見込まれ、内面および外的な状況を知力によって制圧し安定させられるときです。
進化や成長を真摯に誠実に追求し高い学習能力を発揮することが可能になり、またそれに応じて周囲からの助力が期待できるときというのがきのうでした。みずからが志向しなければ進化も成長ももたらされない。意志あるところに道が拓かれ援助の手が差し伸べられるだろうという具合でしたが、自分の頑張りはわかりやすく訴えられたでしょうか。きょうは平常化に向かいます。
「天はみずから助くる者を助く」イギリスの作家であり医者であるサミュエル・スマイルズの著書『自助論』の序文に記されている言葉ですが、助けられることを期待して努力するのであればそれは本末転倒です。子どもが歩きはじめるという行動ひとつ起こすにしても、それは生命力の自然な発露であるのと同時に人間が人間らしくいようという意志の表れでもあるのです。重力に抗いあるいはそれを利用することを学ぶのと同時に、動物性を克服し人間として生きていこうとする。それが成長であり、そのための努力があるのです。こうしたプロセスを経てきょうは精神的な安定がもたらされます。シンボルに描かれているフクロウは古くからつねに知恵の象徴であり、その鳴き声は生命の神秘的で隠された要素の高まりを喚起します。彼の目は人間が通常は知覚することのできないものをとらえています。すなわち個人の自我やその知性の留意から生命の営みが通常は逃れようとするところで活発になっている意識を、このフクロウは体現しているのです。どんなに困難な問題に直面してもその悲劇的な状況を乗り越える知恵が、衝突を乗り越えてもたらされる平和と落ち着きがここには示されています。事態はおのずと収束に向かうのではなく、意志あるところにそれが導かれるのだと心得てください。自己欺瞞に満ちた知的および感情的な鼻持ちならないうぬぼれ傾向が見られるときでもあります。自信は結構ですが過信は禁物です。
射手座5度「老いたフクロウが大きな木の枝に一羽とまっている」
このシンボルのキーノート(基調)は
「無意識の要因とその操作に関しての澄明な認知に基づいた存在への、落ち着いた賢いアプローチ」
きょうはどんな日?
自身の意志に従って高度に知的な達成が見込まれ、内面および外的な状況を知力によって制圧し安定させられるときです。
進化や成長を真摯に誠実に追求し高い学習能力を発揮することが可能になり、またそれに応じて周囲からの助力が期待できるときというのがきのうでした。みずからが志向しなければ進化も成長ももたらされない。意志あるところに道が拓かれ援助の手が差し伸べられるだろうという具合でしたが、自分の頑張りはわかりやすく訴えられたでしょうか。きょうは平常化に向かいます。
「天はみずから助くる者を助く」イギリスの作家であり医者であるサミュエル・スマイルズの著書『自助論』の序文に記されている言葉ですが、助けられることを期待して努力するのであればそれは本末転倒です。子どもが歩きはじめるという行動ひとつ起こすにしても、それは生命力の自然な発露であるのと同時に人間が人間らしくいようという意志の表れでもあるのです。重力に抗いあるいはそれを利用することを学ぶのと同時に、動物性を克服し人間として生きていこうとする。それが成長であり、そのための努力があるのです。こうしたプロセスを経てきょうは精神的な安定がもたらされます。シンボルに描かれているフクロウは古くからつねに知恵の象徴であり、その鳴き声は生命の神秘的で隠された要素の高まりを喚起します。彼の目は人間が通常は知覚することのできないものをとらえています。すなわち個人の自我やその知性の留意から生命の営みが通常は逃れようとするところで活発になっている意識を、このフクロウは体現しているのです。どんなに困難な問題に直面してもその悲劇的な状況を乗り越える知恵が、衝突を乗り越えてもたらされる平和と落ち着きがここには示されています。事態はおのずと収束に向かうのではなく、意志あるところにそれが導かれるのだと心得てください。自己欺瞞に満ちた知的および感情的な鼻持ちならないうぬぼれ傾向が見られるときでもあります。自信は結構ですが過信は禁物です。
サビアンシンボルは
射手座4度「両親に励まされて歩くことを学ぶ小さな子ども」
このシンボルのキーノート(基調)は
「成長の危機における優れた力の自然な援助」
きょうはどんな日?
進化や成長を真摯に誠実に追求し高い学習能力を発揮することが可能になり、またそれに応じて周囲からの助力が期待できるときです。
客観性の獲得と自己変容のために他人との対話を活用し、対人関係の相互作用のなかで思考の深化をめざしたいときというのがきのうでした。攻撃性を文化のなかに昇華し儀式化された衝突を経験することで客観的な意識をもつことができる。また同時に自分の変容にもつながることだろうという具合でしたが、実りある対話はできたでしょうか。きょうは自分の頑張りをわかりやすく見せていきましょう。
結局は自分のため、思考を深めて成長していくという自分本位の目的であっても、他人と対話することそれ自体に大きな意義があったわけです。ある意味対話の内容そのものはさておいて自分のかんがえを客観視することが趣旨だったとも言えます。自分のためではあるけれども独りよがりではないというバランス感覚がここにはありますが、きょうはそれをさらに進化させていきましょう。シンボルに描かれているのは人間の成長の一コマです。地球上のあらゆる生命は重力の影響を受け、それに抗い、あるいは利用することを学ぶのが生きていくうえでは重要な課題の一つとなります。歩くという行為は動物の活動として最も基本的な動作の一つですが、二足歩行は他の動物とは大きく異なる人間の特性でもあります。人間が人間らしく存在していられ、なおかつ生命の基本的な営みが達成されている状態が、歩くという行為には象徴的に示されていると言えます。子どもの足どりはまだ覚束ないものですが、なにがなんでも一人で歩けるようにならなければこの先の人生を生きていけません。両親はひたすら健やかな成長を願い、自分一人で歩けるようになることを望んでいます。進化も成長も、自分一人でなんとかしようという意志あるところにしか道は拓かれないのです。みずからが成長を志向することの大切さと、そしてその意志に周囲が必ず応えてくれるという様子がここには示されています。きょうは自分の希望する成長のビジョンを、ぜひとも積極的に打ち出していってみてください。その意志が誠実なもので精一杯の自助努力に裏打ちされた表明であるならば、きっとそこに援助の手が差し伸べられることでしょう。その一方でみずからが主導権を握ることや進取の精神がまったくの不能になってしまう傾向が見られるときでもあります。他人任せは成長をもたらしません。
射手座4度「両親に励まされて歩くことを学ぶ小さな子ども」
このシンボルのキーノート(基調)は
「成長の危機における優れた力の自然な援助」
きょうはどんな日?
進化や成長を真摯に誠実に追求し高い学習能力を発揮することが可能になり、またそれに応じて周囲からの助力が期待できるときです。
客観性の獲得と自己変容のために他人との対話を活用し、対人関係の相互作用のなかで思考の深化をめざしたいときというのがきのうでした。攻撃性を文化のなかに昇華し儀式化された衝突を経験することで客観的な意識をもつことができる。また同時に自分の変容にもつながることだろうという具合でしたが、実りある対話はできたでしょうか。きょうは自分の頑張りをわかりやすく見せていきましょう。
結局は自分のため、思考を深めて成長していくという自分本位の目的であっても、他人と対話することそれ自体に大きな意義があったわけです。ある意味対話の内容そのものはさておいて自分のかんがえを客観視することが趣旨だったとも言えます。自分のためではあるけれども独りよがりではないというバランス感覚がここにはありますが、きょうはそれをさらに進化させていきましょう。シンボルに描かれているのは人間の成長の一コマです。地球上のあらゆる生命は重力の影響を受け、それに抗い、あるいは利用することを学ぶのが生きていくうえでは重要な課題の一つとなります。歩くという行為は動物の活動として最も基本的な動作の一つですが、二足歩行は他の動物とは大きく異なる人間の特性でもあります。人間が人間らしく存在していられ、なおかつ生命の基本的な営みが達成されている状態が、歩くという行為には象徴的に示されていると言えます。子どもの足どりはまだ覚束ないものですが、なにがなんでも一人で歩けるようにならなければこの先の人生を生きていけません。両親はひたすら健やかな成長を願い、自分一人で歩けるようになることを望んでいます。進化も成長も、自分一人でなんとかしようという意志あるところにしか道は拓かれないのです。みずからが成長を志向することの大切さと、そしてその意志に周囲が必ず応えてくれるという様子がここには示されています。きょうは自分の希望する成長のビジョンを、ぜひとも積極的に打ち出していってみてください。その意志が誠実なもので精一杯の自助努力に裏打ちされた表明であるならば、きっとそこに援助の手が差し伸べられることでしょう。その一方でみずからが主導権を握ることや進取の精神がまったくの不能になってしまう傾向が見られるときでもあります。他人任せは成長をもたらしません。
サビアンシンボルは
射手座3度「チェスを指す二人の男」
このシンボルのキーノート(基調)は
「衝突の超越的な儀式化」
きょうはどんな日?
客観性の獲得と自己変容のために他人との対話を活用し、対人関係の相互作用のなかで思考の深化をめざしたいときです。
他人との軋轢や自分の内面の葛藤などさまざまな障害が起こり得るなかで、それらの刺激によって成長と洗練が見込めるときというのがきのうでした。新しい世界へ踏み出すうえで反発や反感などが予想される。その一方で自分を信じ、自分の内にいくらでも湧き出てくるかのような力の源泉がある。無限のようにさえおもえる内面の資源の豊かさを実感しながら、日常生活のさまざまな問題に純朴な喜びを感じることができるだろうという具合でしたが、トラブルさえ楽しんでとり扱えたでしょうか。きょうは他人との対話を積極的に求めてみましょう。
トラブルが生じてもまったく問題なく、ある意味「われ関せず」といった様子で状況を乗り切ることができたとしても、それは言うまでもなく自分の内なる力があってのことです。心のなかに波が立つようなことがあったとしても大きな悪影響がなく、むしろ自分の精神が純化されていくほどの状況になっていました。いずれにしても関心は自分に大きく向いていたことでしょう。きょうは他人にも関心を向けてみましょう。とはいえそれは結局自分に翻ってくることになるのですが、差し当たり対話の可能性を追求してください。シンボルに描かれているのはチェスの対局というかたちをとって対話している二人の男の姿です。人間が社会文化的な存在である限りはほとんどすべての状況下で自分の攻撃性を変容させる必要があります。チェスは非常に高度に洗練されたゲームです。キング・クイーン・ビショップ・ナイト・ルーク・ポーンの六種類の駒は、人間のパーソナリティを構成するさまざまな要素の象徴としてとらえることができ、キングは意識的な自己、つまり自我を表しているものだと見てとることが可能です。これらを複雑なルールのもとで動かして盤上で〈対話〉することは人間の攻撃性を文化のなかに昇華し、他人との衝突を洗練された儀式として構築する営みであると言えます。この営みの大きな意義は、儀式化されているなかで他人と衝突することを経験し客観的な意識をもつことができるという点にあります。また同時に対話を通じて自分が変容し得るという相互作用も期待できます。結局は自分のためであるのだとしても、ぜひ対話を有意義に利用してみてください。それは相手のほうも同様であるはずです。一切の疑念がない偏見やそれに基づく強い敵対感情や憎悪が湧き起こったり馬鹿げているほど厳格な正確さを追求する傾向が見られるときでもあります。対話する以上は柔軟さをもつよう心がけましょう。
射手座3度「チェスを指す二人の男」
このシンボルのキーノート(基調)は
「衝突の超越的な儀式化」
きょうはどんな日?
客観性の獲得と自己変容のために他人との対話を活用し、対人関係の相互作用のなかで思考の深化をめざしたいときです。
他人との軋轢や自分の内面の葛藤などさまざまな障害が起こり得るなかで、それらの刺激によって成長と洗練が見込めるときというのがきのうでした。新しい世界へ踏み出すうえで反発や反感などが予想される。その一方で自分を信じ、自分の内にいくらでも湧き出てくるかのような力の源泉がある。無限のようにさえおもえる内面の資源の豊かさを実感しながら、日常生活のさまざまな問題に純朴な喜びを感じることができるだろうという具合でしたが、トラブルさえ楽しんでとり扱えたでしょうか。きょうは他人との対話を積極的に求めてみましょう。
トラブルが生じてもまったく問題なく、ある意味「われ関せず」といった様子で状況を乗り切ることができたとしても、それは言うまでもなく自分の内なる力があってのことです。心のなかに波が立つようなことがあったとしても大きな悪影響がなく、むしろ自分の精神が純化されていくほどの状況になっていました。いずれにしても関心は自分に大きく向いていたことでしょう。きょうは他人にも関心を向けてみましょう。とはいえそれは結局自分に翻ってくることになるのですが、差し当たり対話の可能性を追求してください。シンボルに描かれているのはチェスの対局というかたちをとって対話している二人の男の姿です。人間が社会文化的な存在である限りはほとんどすべての状況下で自分の攻撃性を変容させる必要があります。チェスは非常に高度に洗練されたゲームです。キング・クイーン・ビショップ・ナイト・ルーク・ポーンの六種類の駒は、人間のパーソナリティを構成するさまざまな要素の象徴としてとらえることができ、キングは意識的な自己、つまり自我を表しているものだと見てとることが可能です。これらを複雑なルールのもとで動かして盤上で〈対話〉することは人間の攻撃性を文化のなかに昇華し、他人との衝突を洗練された儀式として構築する営みであると言えます。この営みの大きな意義は、儀式化されているなかで他人と衝突することを経験し客観的な意識をもつことができるという点にあります。また同時に対話を通じて自分が変容し得るという相互作用も期待できます。結局は自分のためであるのだとしても、ぜひ対話を有意義に利用してみてください。それは相手のほうも同様であるはずです。一切の疑念がない偏見やそれに基づく強い敵対感情や憎悪が湧き起こったり馬鹿げているほど厳格な正確さを追求する傾向が見られるときでもあります。対話する以上は柔軟さをもつよう心がけましょう。