すずきふみよしの「星の音を聴く」 -5ページ目

すずきふみよしの「星の音を聴く」

読むこととはすなわち聴くこと。耳を傾けること。
ホロスコープから「聴いた」ものを、そして感じとったものを、日々丹念に言葉にしていきます。

サビアンシンボルは
射手座22度「中国人の洗濯屋」

このシンボルのキーノート(基調)は
「異質な環境において生き延び成功するために、その人特有の民族的文化的背景を利用すること」

きょうはどんな日?
個性の復権と自主性の回復のために、また自分自身の天性を際立たせるために周囲との乖離を感じるような環境が必要とされるときです。

より個人的なより高度な知的発達を目的として、模倣を通じた学習に向かいたいときというのがきのうでした。学習の最も基本的な行動は真似をするということである。フィクションの世界に入って想像力を使って、対象に同化し一体感を楽しみつつ成長も楽しんでみようという具合でしたが、上手に真似はできたでしょうか。きょうは独自性を追求しましょう。

真似というのはあくまでも学習の手段の一つであり、それ自体が目的ではないことは明白です。対象に同化するというのは学習の方法としてきわめて有効であり生命のプロセスとしても実に原初的で本質的であるとも言えるものですが、過度の同化は主体性の喪失にもつながってしまいかねません。宗教的な集団の師、導師はしばしば自身に対する信徒の同化や一体化を要求しますが、これは教義を学習し理解し身につけるうえで大変有効であるものの、そこに学ぶ者の個性が残る余地はないでしょう。したがってきょうは個性の復権へと揺り戻しが生じるときであると言えます。しかしそれは自分の見つめ直しや、ましてや単純な自己主張などを通じてもたらされるものではありません。サビアンシンボルのなかに中国人は度々登場しますが、いずれもいにしえの知恵の象徴であり、知識偏重の西洋的な知性に対抗する存在を意味しています。中国人はどんな国にあってもチャイナタウンをつくり自分たちのコミュニティを形成しますが、とりわけアメリカ社会においては料理人と洗濯屋は中国人の代表的な職業および地位だと言えるでしょう。異国の地にあってその地の人たちとある程度距離をおいて一線を引いた関わり方をもっている彼らのように、自他の線引をしっかりと画定することが個性の復権につながるのだということです。あるいはみずからそのように線を引く以前に疎外や隔絶を感じるような事態が生じる可能性もあります。しかしまったく動じることはありません。むしろ好機ととらえましょう。自分の出自や生育環境などによるものか、それとも自分自身の特別な関心からか、期せずして周囲との乖離を感じるようになった場合に、そこにこそ自分の個性がどういうものなのかがはっきりと立ち現れてくるはずです。そして、それこそが生きていくうえでの大きな力となることでしょう。一方で自分自身の劣等感に対して不必要な受容を見せてしまう傾向が見られるときでもあります。弱点も個性なのだととらえ方を変えてみましょう。
サビアンシンボルは
射手座21度「借りてきた片眼鏡を身につけている子どもと犬」

このシンボルのキーノート(基調)は
「発達の高次の段階を予期する際の想像力とつくりごとの利用」

きょうはどんな日?
より個人的なより高度な知的発達を目的として、模倣を通じた学習に向かいたいときです。

自然の摂理に基づいた行動を通じて知識を生きた知恵とし、またそれを力として未来に向けた準備を整えておきたいときというのがきのうでした。めぐる季節に応じて生活のリズムをつくり出していく。そうして生きた知恵を用いることから中長期的な生活設計が成立し、さらには人類のあり得べき姿さえもかたちに近づけていくことが可能となるという具合でしたが、準備に着手できたでしょうか。きょうはさらに個人的な関心に重きを置きましょう。

個人の生活リズムを自然の摂理に同期させる――大仰な言い方をすればそうなりますが、意識してそうせずとも私たちの日常生活は少なからず自然の影響を受けており、だからこそこうして天体の運行が森羅万象さまざまな出来事や人間の気分にさえも関係しているのだという占星術が成り立っているわけです。一個人がみなそれぞれ〈大きな支配的な法則〉を感じとり自覚的に同調することが可能となれば「あり得べき姿」とは共有も具体化も容易なのかもしれません。それはともかく壮大な話のみならず卑近な個人的な生活のレベルにおいても未来の像を具体的に描いてみたところで、それに向けて進んでいきましょう。きょうはより個人的な発達の問題を扱っていきます。シンボルに描かれているのは奇妙ながらもほほえましい光景です。眼鏡とは、いささか陳腐ではありますが知的な発達の象徴です。原始的な部族の酋長は、場合によっては自身を印象づけるためにレンズの入っていない伊達眼鏡や西洋の帽子を身につけるという例があることが報告されています。ここでの眼鏡や帽子は西洋の文化や文明そのものの象徴というよりは、人間的に優れた人たちの特徴として部族のなかで象徴的に機能しているのです。子どもと犬はともに片眼鏡をかけおたがいの顔を見あわせてじゃれていますが、この様子が示しているものは発達の際における模倣の効用です。学習の最も基本的な行動とは真似をするということです。対象の真似をしたりあるいは「ごっこ遊び」をすることから子どもは知的に大きな成長を遂げますが、フィクションの世界に入って想像力を使ってみるその対象が有名人でもなくスーパーヒーローでもなく眼鏡をかけた犬である点に、今日では素朴ながらもむしろ高度な知性を感じとることができるでしょう。対象に同化し、一体感を楽しみつつ、ぜひ成長も楽しんでみてください。歪んだビジョンや自滅的な先入観を抱く傾向が見られるときでもあります。想像が先走ってとらわれてしまうのはかんがえものです。
サビアンシンボルは
射手座20度「古風な北部の村で男たちが夏の間に使うための氷を凍った池から切り出す」

このシンボルのキーノート(基調)は
「将来の人間のニーズに提供するための、天然資源の先見の明のある利用」

きょうはどんな日?
自然の摂理に基づいた行動を通じて知識を生きた知恵とし、またそれを力として未来に向けた準備を整えておきたいときです。

自分自身の生存と次世代の存続について能力の限りを尽くして可能性をかんがえ、自己犠牲を払ってでも活路を見い出しておきたいときというのがきのうでした。自身の無意識裡の成長志向を意識して自覚的に生きるうえで生存可能性の問題が立ち上がってくる。現代の文明化社会のなかで生き残っていくには自己犠牲を代償としなければならないことも視野に入れ、次の世代を生かすためにかんがえてみようという具合でしたが、未来をおもい描くことはできたでしょうか。きょうはさらにリアルに具体的な解決をめざしましょう。

にわかに切羽詰まった問題が浮上してきたかのようですが、これは先週土曜日の15度のテーマから引き続いてもいると言えるものです。古代の文化や太古の叡智に想いを馳せ、そこから人類がこれからあり得べき姿を描いてみるという壮大な話がありました。さらにそこからより現実的で具体的な活動として過去の見直しからこの先を予測し計画を立ててみるという提案をしたわけですが、そのうえでの行動において社会的な制度に対する依存の問題が現れてきました。それが一定の克服を見たところであらためて未来に目を向け「あり得べき姿」を見つめ直していくという流れなのです。理念や理想として描かれているにすぎないそれをかたちにしていく、かたちに近づけていく。一方で過去を振り返り現状を見渡せば、そこから導き出される未来の像は「あり得べき姿」とは大きな隔たりを見せるかもしれません。しかし現状はいままでの積み重ねの結果であり、未来はこれからの積み重ねによってつくられていくものであるはずです。シンボルに描かれているのは自然のリズムに従った生き方をしている人たちの生活です。季節がめぐり周期的にやってくる寒暖の違いを知り、それに応じて来たるべき夏に備え用意をするというごく当たり前の〈生活の知恵〉がここには示されています。文明に対するスローライフという単純な構図ではなく、知識を日常生活のなかで生きた知恵にしていくモデルケースとしてとらえてみてください。そして、その生きた知恵こそが「あり得べき姿」をかたちに近づけていくはずなのです。壮大な話はさておいても卑近なところでは、自分のこの先に備えて具体性を帯びた中長期的な計画をしっかり立案しておくのもよいでしょう。ポイントは周期、リズムです。あのときこうで次もまた同じようにこうなるのがわかっている、だからそれに準備しよう、ということです。知識を生かすよう工夫しましょう。しかしながらその一方でものごとの相対関係や距離感や見通しを把握できなかったり苦難に対してまったくの不必要な受容を見せてしまう傾向が見られるときでもあります。なにを代償とするのか見極めが必要でしょう。
サビアンシンボルは
射手座19度「人間の振る舞いと遺棄物に脅かされたペリカンたちが子どもを育てるためにより安全な場所を探す」

このシンボルのキーノート(基調)は
「生の新しい方法と健全な環境を発見するために未来に関心をもつ人々の必要性」

きょうはどんな日?
自分自身の生存と次世代の存続について能力の限りを尽くして可能性をかんがえ、自己犠牲を払ってでも活路を見い出しておきたいときです。

あくまでも成長への志向として自分自身の私的な関心事に隠遁的に没入し、またそれに対して保護と助力が与えられるときというのがきのうでした。みずから善く生きようという意欲から教会へと足を運ぶのと同じように、人間的な成長を求めて自分のやるべきことに入り込んでいく。それに対して養育的な保護が与えられ、依存的な態度が克服されていく。同時に保護する側の過保護な態度も逆説的に克服されていくだろうという具合でしたが、差し当たり関心は追求できたでしょうか。きょうはその追求を通じてさらに大きな視野をもってみましょう。

過去の見直しからこの先を予測し計画を立ててみる。そのうえでの行動における、周囲、とりわけ社会的な制度に対する依存をめぐる問題を数日扱ってきました。自主性を重視し自分の主体性を言わば回復するような試みを経て、無意識のうちにでもみずから成長を志向することについて意識的になってみる。自覚的な生を生きる段階へと進む際にリアルに立ち上がってくるのは生存可能性の問題です。シンボルに描かれているペリカンは、餌がないときには雛鳥に自分の血肉を分け与え食べさせる習性があると言われており、胸に穴を開けて血を吸わせ雛を育てることが伝説として残ってもいます。実際の生態はどうなのか真偽のほどは不明ですが、そのさまは最後の晩餐においてパンと葡萄酒をみずからの血肉の象徴として弟子たちに与えたイエス・キリストの姿を想起させます。こうしたことからペリカンはあらゆる生物のなかで最も子孫への愛情が強いとされており、またそれゆえ博愛的な精神のアイコンとして、あるいはイエス・キリストのシンボルとして、さまざまなかたちで図像化され記述されてもいます。そのようなペリカンたちが人間の文明が引き起こす自然の環境破壊と対抗している様子が描かれていますが、これはまた現代の文明化社会のなかで生き残っていくには自己犠牲を代償としなければならないことも示唆しています。そしてそれはなにより次の世代を生かすための代償なのです。実際にどういう行動を起こすかは別として、自分の、家族の、社会の、そしてより言えば人類の、現在と未来の生存と存続についてかんがえてみる機会をもってください。かんがえるヒントはごく身近なところにあるはずで、それも大変近くに自分が受けた保護や助力が参考になることでしょう。不合理で理性を欠いた態度を示したり基本的に非社交的な本能や衝動が現れる傾向が見られるときでもあります。生きることに必死であっても美しくありましょう。
サビアンシンボルは
射手座18度「日よけ帽に頭を守られて、海岸で遊ぶ子どもたち」

このシンボルのキーノート(基調)は
「自身の無意識裡にある天性の力強いエネルギーに関わりはじめようとする人たちへと同様に、いまだ未熟な人たちにも社会が与える保護」

きょうはどんな日?
あくまでも成長への志向として自分自身の私的な関心事に隠遁的に没入し、またそれに対して保護と助力が与えられるときです。

安易な方法をとることを避けて甘えや依存心を克服し、自主性に基づいた集団参加を祝祭的に展開していきたいときというのがきのうでした。自分の目的のための積極的な制度利用という側面はあるものの少なからず依存的な態度であったおとといを受けて、それとは対照的に自主性を打ち出していく。生まれ変わったような生の喜びに満たされながら自主的な行動を心がけてみようという具合でしたが、易きにつくことはなかったでしょうか。きょうはさらに自分の興味を重視していきましょう。

自主的とはいえ礼拝は宗教的な行為ですからそこには救済を求める魂が存在しており、それは少なからず神への依存的な態度なのだと指摘することも可能でしょう。しかしそれでも祈りをもって一日をはじめようという生活態度は、自分を律し勤めを課し人間的な成長へと導くものです。みずから善く生きようという意欲こそが教会へと足を向かわせているのです。シンボルに描かれている日よけ帽(sunbonnet)とは通常は婦人用のそれを指す言葉です。母親の保護のもとで子どもたちが遊んでいる光景が描かれていますが、彼らのもっぱらの関心は目の前の遊びであっても、それを通じて心身の健全な発育がなされることは自明でしょう。子どもでさえも無意識のうちに成長を志向しているのです。それに対して養育的な保護が与えられる様子がここでは描かれていますが、そのようにして一応は依存的な態度が克服されているのだと理解しましょう。また大人による過保護と偽善的な態度は、しばしばそもそもの養育的な意図を駄目にしてしまいます。今日では社会の制度の保護的な温情主義に対する、少なくとも部分的には〈健康的〉とさえ呼べる〈反乱〉が世の中では数多く見受けられますが、きょうはみずから進んでなにかの保護下に身を寄せてみるのもよいでしょう。ある種隔離されたと言ってもよいくらいの環境下に身をおくことで、依存的な態度が克服されるのと同時に、保護する側の過保護な態度も逆説的に克服されていくはずです。両方の視点をもってみてください。一方でまったくの子どもじみた自己主張へと逃げ込む傾向が見られるときでもあります。未熟であることを盾にとっては成長はできません。
サビアンシンボルは
射手座17度「復活祭の早天礼拝で大勢の人だかりができている」

このシンボルのキーノート(基調)は
「再誕のプロセスにおける集団参加への、文化的に刺激を受けた切望」

きょうはどんな日?
安易な方法をとることを避けて甘えや依存心を克服し、自主性に基づいた集団参加を祝祭的に展開していきたいときです。

過去を振り返ることによって未来を推測し問題解決のための適切な判断を下し得る能力が発揮できるときというのがおとといでした。未来のために積極的に過去をとらえ返す。過去の見直しからこの先を予測し計画を立ててみることで相対的な安全が導かれ、精神的な安定ももたらすことになるという具合でしたが、有意義に振り返ることはできたでしょうか。それを受けての展開をお伝えできずに申し訳ありませんでした。

きのうお伝えするはずであったサビアンシンボル「カモメが食べ物を期待して船の周りを飛びまわっている」は一見したところカモメと人間との共生関係を描き出しているかのように見えます。ここではカモメは人間の魂の野性的で通常は飼い慣らされることのないエネルギーを象徴していますが、そのエネルギーはまた同時に人間が海上を航行する際の副産物に対して大変巧妙に一種の飼い慣らされた依存を開発し得るというわけです。困難な生を生きることよりも施しにすがることの容易さも暗示されていると言えますが、自分の目的のための積極的な制度利用を示しているのだと解釈することも可能です。過去を振り返ったうえでの未来予測を踏まえてこの先の活動を展開する場合に、易きにつくという依存的な態度もある一方で、自身の利益誘導のために処世的な賢さを発揮できるとも言えるでしょう。こうしたことを経て、きょうはまた方向性が反転します。

シンボルに描かれているのはキリスト教者にとって最重要とも言える祭りの模様です。イエス・キリストの復活を記念するものですが、春分後最初の満月の次の日曜日に行われます。したがって春の訪れを祝うものでもあり冬のあいだの困難を乗り越えた生きとし生けるものの再誕を祝うものでもあります。朝早くからの礼拝は祈りをもって一日をはじめようという意欲と自主性に基づくものであり、これは依存的な態度とは対照的です。生まれ変わったような生の喜びに満たされながら、ぜひとも自主的な行動を心がけてみてください。ものごとの表面的な形式や礼儀作法に過度にこだわる傾向が見られるときでもあります。内容も大切にかんがえましょう。

射手の季節の後半のテーマは〈転移・譲渡〉です。知的な発達の締めくくりとしての抽象思考は、古代の文化や太古の叡智に想いを馳せ、そこから人類がこれからあり得べき姿を描いてみるという壮大な方向へ発達しました。後半はこうした思考を社会の制度のなかに反映させ、あるいは新たに制度をつくり出し確立することによって、社会全体に還元していくプロセスになります。「あり得べき姿」はまだ理念や理想として描かれているにすぎませんが、それをかたちにしていく、かたちに近づけていくことで来たるべき山羊の季節における具体化と実現へつないでいく段階だということです。引き続き抽象性は高まりますが、純化をめざしていきましょう。
サビアンシンボルは
射手座16度「カモメが食べ物を期待して船の周りを飛びまわっている」

このシンボルのキーノート(基調)は
「社会環境の刺激への心霊的な欲望の容易に獲得された依存性」

きょうはどんな日?
筆者の都合により大変申し訳ありませんが、本日は休載とさせていただきます。
あしからずご了承ください。
サビアンシンボルは
射手座15度「2月2日のグラウンドホッグデーに自分の影を探しているグラウンドホッグ」

このシンボルのキーノート(基調)は
「出来事の新たな展開を予測し将来の見込みを確かめることの価値」

きょうはどんな日?
過去を振り返ることによって未来を推測し問題解決のための適切な判断を下し得る能力が発揮できるときです。

知識の継承について深いレベルでのとらえ直しができ、またそれを通じて永続的な文化の基準がわかり得るときというのがきのうでした。知識を日常生活のなかで生きた知恵にしていく方向性に比べてはやや現実味の薄い話ではあるけれども、人間のありとあらゆる営みのなかで不変であり続けているものに想いを馳せてみよう。そこにも知識を生かしていた、生きていた人々がいたのだから、という具合でしたが、感じるものはあったでしょうか。きょうは目線と意識を反転させましょう。

過去に目を向けるということは、単なるノスタルジックな回顧にとどまらずさまざまな経験の積み重ねや知識の蓄積を見直すということでもあります。またその作業を通じてこれから起こり得る出来事を予測したり、同時にこの先の方針を決定していくことも可能となるわけです。古代の文化や太古の叡智に想いを馳せ、そこから人類がこれからあり得べき姿を描いてみる――ずいぶんとスケールの大きい話ではありますが、ここまでのプロセスを経たいまであれば比較的馴染みやすいことかもしれません。射手の季節のはじまりにあたって「この先半月のテーマは〈抽象〉」であると述べました。ある種知的な発達の締めくくりとしてこの半月をすごしてみるように提案しましたが、その帰結はこのようにかなり壮大なものへ展開しています。おのおのの関心の程度に応じて、かんがえられることをぜひかんがえてみてください。

シンボルに描かれているグラウンドホッグとは地リスの一種であり、アメリカやカナダでは毎年2月2日にこれを用いて春の訪れを占う行事が行われています。冬眠から目覚めたグラウンドホッグが巣穴から外に出たときに、自分の影を見ると驚いて巣穴に戻る習性があるとされているのですが、そうなってしまうとあと6週間冬が続くという占い結果になります。自分の影を探しているのであれば、ひょっとすると春がくるのを拒んでいて巣穴に戻りたいのかもしれませんが、ここではそうした退行的な意味あいではなく未来のための積極的な過去のとらえ返しが示されています。壮大な話はさておいても日常生活のレベルにおいて、過去の見直しからこの先を予測し計画を立ててみるようおすすめします。そしてそうすることは少なくとも相対的な安全を導き、精神的な安定ももたらすことでしょう。しかしながらその一方で自己の安定性をまったく欠いたり身にしみ込んだ臆病さが表に現れる傾向が見られるときでもあります。丁寧に振り返れば落ち着くはずです。
サビアンシンボルは
射手座14度「大ピラミッドとスフィンクス」

このシンボルのキーノート(基調)は
「オカルトの知識と存在前史の〈種子の人〉という準神聖な管理人との永続的な力」

きょうはどんな日?
知識の継承について深いレベルでのとらえ直しができ、またそれを通じて永続的な文化の基準がわかり得るときです。

新たに触れた知の体系や文化の所産の利用のために自身の過去の知識や体験の意味をとらえ直す必要に迫られるときというのがきのうでした。新しく知った知識を生きた知恵にするうえで、では自分が過去にやってきたことをどのようにとらえるのか。一種の〈清算〉が必要されているのだという具合でしたが、誠実にとり組むことはできたでしょうか。きょうは知識や文化について少し難しく掘り下げてみましょう。

〈清算〉とは述べましたが、なにも不要なものを処分したりして身ぎれいになることばかりを指しているわけではありません。頭と心のなかを棚ざらえして新しいものが入る余裕をつくっておくことが必要な場合もあれば、入っているものを分類して整理整頓することも必要となるでしょう。いずれにしても目的は新しいもののためであったわけですが、それは自分にとって新規に手に入れたということであって、そもそもの起源は時代も地域も規模もさまざまなところから発せられたものでしょう。どんなものであれ自分にとって価値あるものと見なしたうえでとり入れているわけですから大切に有効に使いたいところですが、きょうはとりわけ起源の古いものごとへの親しみが強まるときです。ピラミッドもスフィンクスもそれ自体が古代の文化の遺産であり、太古の叡智の象徴でありますが、これらは四千年以上にわたってその後の人類の進化を目撃し続けている存在でもあります。うつりゆくものもあれば変わらないものもある。人間のありとあらゆる営みのなかで不変であり続けているものに、一種の〈元型〉を見てとることもできるでしょう。人間の精神はそうしたものに依って立つことで確固たる〈公式〉を導くことが可能となります。知識を日常生活のなかで生きた知恵にしていく方向性に比べては、やや現実味の薄い話ではありますが、人間の文化とはどのように繋げられてきたのか、知識とはどのように伝え続けられてきたのかに、ぜひ想いを馳せてみてください。そこにもその知識を生かしていた、生きていた人々がいたのです。一方で大巨人の靴をいっぱいに満たそうとするような馬鹿げた努力を払う傾向が見られるときでもあります。それは建設的とは呼べません。
サビアンシンボルは
射手座13度「未亡人の過去が白日のもとにさらされる」

このシンボルのキーノート(基調)は
「新しいサイクルによって提示される機会に作用するような、過去の行いのカルマ」

きょうはどんな日?
新たに触れた知の体系や文化の所産の利用のために自身の過去の知識や体験の意味をとらえ直す必要に迫られるときです。

時代も地域も規模もさまざまである多種多様な知識を集積し有効に利用することと、知り得たものごとの啓蒙における責任意識との、深刻な必要性を自覚しておきたいときというのがきのうでした。個人や共同体の知識を、より大きな枠組のなかに〈集合知〉として集積し民主的に利用していく。また知識の伝達には責任が伴うことをあらためて意識し、まとめることや利用することや伝えることについてかんがえてみようという具合でしたが、自分の見解はまとまったでしょうか。きょうは利用するうえでの〈姿勢〉が問われます。

体を通じて学んだことであってもそれをあらためて人に伝えるには言葉にする作業が必要となりますし、それをまとめ公にし知識を共有する設備や制度や仕組みも要します。そしてさらに、そのように知識を共有する際には伝達する側は大きな責任を有しています。一方で受け手の側は、その内容を吟味する必要があるのはもちろんのこと、なによりもその知識を日常生活のなかで用いて生きた知恵にすることが求められます。シンボルに描かれているのは幾分ショッキングな様相を呈したイメージですが、いったいその「過去」とはどういうものなのかは明らかにはされていません。少なくともわかることは、彼女は未亡人であるのですからかつては結婚しており、そしてその結婚生活が夫の死によっていったんは終了を迎えたということです。どういう過去なのかはさておきそれが白日のもとにさらされるという事態は、かつての結婚生活がもつ意味について、伏せられていたなんらかの事実が明らかにされたところであらためてかんがえ直すことになるという状況を示しています。新しく知った知識を生きた知恵にするうえで、では自分が過去にやってきたことをどのようにとらえるのか。一種の〈清算〉が必要されているのだということがここに示されています。雄鶏が日の出を告げても、自分にはまだやり残したきのうの仕事があって新たな一日のはじまりにのしかかり、影を落としている。これをクリアにする必要を突きつけられるということです。また、以前に得た知識でも当時はあまりぴんとこなかったものが、新たな意味あいを帯びて見えるようになってくるという展開も想定されます。終わったもの、諦めてしまったものとして一度は処理してしまったものが、違った意味をもって自分の前に立ち現れてくることになる。こういう体験こそが真の意味での〈因果応報〉なのだと理解できるでしょう。誠実にとり組んでください。しかしその一方で自身の責任をまったく無神経に無感覚に冷淡に拒絶する傾向が見られるときでもあります。逃げていてはなにもはじまりません。