1992年 F1日本GP セカンドだけの表彰台 | CLUB24-にいよんー

1992年 F1日本GP セカンドだけの表彰台

1992年 F1第15戦 日本GP

 

 日本人初のF1レギュラードライバーになった中嶋悟選手が引退し、鈴鹿サーキットでの開催も6年目となり❝新たなステージ❞になった感があった。

 仮設スタンドが増えてチケットが取り易くなった。

 当時は東京に住んでいたので木曜日の晩に夜行バスを使って名古屋まで。翌朝、近鉄特急(社会人・独身だったので資金に余裕があった)で白子、バスで鈴鹿サーキットまでの行程だった。

 駐車場に停めた大阪からの友人の愛車・トヨタ86レビンの後部座席に寝かせてもらった。友人はテントを張って外で寝た。運転席はバケットでリクライニングができないので、雨が降った土曜の晩は助手席をリクライニングさせて車内に二人で寝た。

 宿泊用荷物は予め友人宅に送り、積んで来てもらった。

 東京に住んでいた数年間、鈴鹿でのレース観戦はこのパターンで友人の86レビンに車中泊させてもらった。若かったので狭い後部座席でも寝られた。

 帰りも名古屋から夜行バスで東京まで帰った。月曜日は半休を取っていた。最寄りの下赤塚駅からアパートに戻る道すがら、一緒に住んでいた彼女が出勤のために歩いてきたので「ただいま」「行ってらっしゃい」と交わした記憶がある。

 写真は出勤途中に渋谷道玄坂にあるビックカメラにフィルムを出して、帰りに現像フィルムを受け取っていた。

 失敗している写真が多々あるので同時プリントにすると勿体ないので、当時はフィルムをテレビに映せるフジフィルムの「フォトビジョン」を持っていて、それで吟味してプリントに出していた。

 

 予選日には最終コーナー内側にあったキャノンの望遠レンズ試写台に行って撮影するのも毎年の楽しみだった。

 試写台は時間制だったので、自分が使用できる時間帯にマシンが走ってくれるかどうかが運命の分かれ道だった。

 

この年くらいからリストバンドが使われるようになった

 

 決勝は有力チームのエースドライバーが皆脱落し、セカンドドライバーだけで表彰台を占める結果になった。

 

優勝:リカルド・パトレーゼ選手/ウイリアムズFW14B/ルノー

 「F1最強マシン」の呼び名も高いハイテク装備のFW14B。

 マンセル選手が圧倒的に強く、パトレーゼ選手は日本GPでの1勝のみに留まったが後はほぼ2位か3位に入る安定性があった。自身のF1キャリアで最高のランキング2位になった。

 マンセル選手がリタイアした後はトップを堅守しての優勝。

 

チェッカーを受けて帰ってくるパトレーゼ選手

 

2位:ゲルハルト・ベルガー選手/マクラーレンMP4/7A/ホンダ

 ホンダがF1活動終了する最後(第2期)の日本GPとなり「鈴鹿スペシャル」エンジンを投入。

 ドルフィンの記憶では、この「鈴鹿スペシャルを投入」と言われた時は大概リタイアしている。なのでこのフレーズを聞くと「やめてくれ~!」と叫びたくなる。

 優勝を期待されたセナ選手がリタイアした後、何とか2位表彰台に立ちホンダの面目躍如した。

 ベルガー選手は❝ここぞの時❞を必ず押さえている頼りになる選手だと思う。

 

3位:マーティン・ブランドル選手/ベネトンB192/フォードHB

 

 

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