プラチナチケット化した’89年F1日本GP観戦 ロータス、タイレル、ミナルディ、リジェ
1989年F1日本GPのチケットは完全にプラチナチケット化した。指定席はおろか一般観戦券すら入手できるかどうか怪しいところだった。が、なんとか観戦券だけは確保できた。
指定席が無いと観戦席争奪戦に加わらなければならない。
日曜日午前零時のゲートオープンでよーいドンだ。
メインゲートよりも人が少ないだろうと南ゲート(裏ストレート近く)からの入場を狙ったが、ここも人であふれかえっていた。
午後11時過ぎる頃には殺伐とした空気になり、金網を押し破るほどの勢いになっていた。「このままではオープン時間が早まるのではないのか?」と思わせるほどコップの縁いっぱいいっぱいの状態。
それでも決まりは決まり。午前零時を待ってゲートが開かれた。金網の門が半ば壊されるほどの勢いで人が流れ込んで行った。
❝走り担当❞を買って出たドルフィンは荷物を友人に任せて走りまくった。先行する人たちを抜きまくって行ったのだった。今ではこうはいかない(笑)。
木曜日の晩から大阪を発ち鈴鹿入りした。愛車・日産ラングレーGTハッチバックで車中泊だ。ハッチバックなので車内から荷物の入れ替え等ができて便利だった。
東京からも友人2名が車に相乗りして鈴鹿にやってきた。
金曜日の夕方から一旦駐車場が空いた時にお互いの車を合流させた。それでも奥の駐車場だった。
金曜日の晩は自炊。友人が「パスタにしよう」とカセットコンロお湯を沸かすがこの日は寒かった。なかなかお湯が沸かなかったと記憶している。翌日ならまだ気温はマシだった(笑)。
土曜日の晩に再びゲートに近い駐車場に車を移動させ、夕食は外で。この時に今日まで懇意にしている喫茶店を見つけることになる。
鈴鹿8耐も含め、この頃から友人とともにアフター・レースも楽しむようになって来た。
ダンロップのお姉さん❤
中嶋悟選手/ロータス101/ジャッド
右フロントサスが陽の光の反射で輝いている。お気に入りの一枚。
ホンダエンジンを失い、戦闘力も落ちたマシンに苦戦する1年だった。最終戦・オーストラリアGPまで入賞できなかった。
予選12番手から激走するもリタイアに終わる。
シケインのインに乗り上げて片輪を浮かせている
母国GP初のリタイア
ロータスのピット
ネルソン・ピケ選手の上手く撮れた写真が無かった…。
ジャン・アレジ選手/タイレル018/フォード
チームがキャメルのスポンサードを受けるにあたり、フランスGPでF1デビュー。堂々の4位入賞した。
日本GPではオートバックスもスポンサーに付いた。
翌年、非力なタイレルでも大活躍するのだった。
ジョナサン・パーマー選手/タイレル018/フォード
オリビエ・グルイヤール選手/リジェJS33/フォード
パオロ・バリラ選手/ミナルディM189/フォード
負傷欠場したマルティニ選手の代役で出走。
パウロ・バリラ選手とサイン
ルイス・ペレス-サラ選手/ミナルディM189/フォード
ポルトガルGPで負傷して日本GPは欠場したピエルルイジ・マルティニ選手も帯同して鈴鹿入り。
ピエルルイジ・マルティニ選手のサイン
昨年のサウンド・オブ・エンジンでは保有するタイレルP34を走らせてくれた。