10年待った鈴鹿で初開催 1987年F1日本GP マクラーレン編 | CLUB24-にいよんー

10年待った鈴鹿で初開催 1987年F1日本GP マクラーレン編

 今年(2020年)のF1日本GPの中止が発表された。

 ファンの多くは薄々覚悟していたが「認めたくないものだな」という気持ちがあったことだろう。

 ドルフィンは元々行くつもりはなかったが、楽しみにしていた方のショックは大きいものだろう。

 1987年に鈴鹿サーキットF1日本GP初開催された。

 富士スピードウェイでの開催から10年。ー待った。待ちかねた。毎年、当たり前のように開催されているこの30年しか知らない方には、空白の10年…特に少年期の10年がどれほど長い年数か計り知れないだろう。

 その10年でウイングカー時代が全盛を迎え終焉していた。歴史に残る名ドライバーが活躍してこの世を去って行った。

 ターボエンジン時代が到来し、ホンダがF1復帰し、日本で走ったドライバーがF1にステップアップし、日本開催を迎えた。

 中嶋悟選手が日本人初のF1レギュラードライバーとなり、フジテレビが全戦中継してくれたおかげで空前のF1ブームが到来。観戦チケットも初年度からプラチナペーパーとなっていた。

 往復はがきに座席希望を第三候補まで記入して送り、返信ハガキの結果で購入できる。

 ドルフィンはサークルのメンバーにハガキを書いてもらい30通くらい出したが、指定席は取れず自由席だけ確保できた。

 鈴鹿サーキットはF1初開催なので木曜日に1時間の完熟走行が行われ、そこから観戦に出かけた。

 住んでいた名古屋市から愛車・ホンダMVX250で日々往復した。

 

 決勝日だけは津市の知り合いが指定席で観戦するというので土曜日予選終了後に落ち合って、家に泊めて頂いた。夕食にすき焼きをご馳走になったのが忘れられない。

 改めてお礼をしたか覚えていないので『探偵ナイトスクープ』に彼の居所を調べてもらってお母さんお祖母さんにお礼を言いたいと考えた事もあったが実行できずにいた。 

 決勝日朝は彼の50ccスクーターの後ろに付いていきサーキットまで向かった。

 木曜日は朝からヘアピンで走るのを待っていたが、今から思えばグランドスタンド裏で選手が来るのを待っていれば良かったとか、ピットでの作業の様子を見ておけば良かったとか反省は残る。

 F1が走り出した時の感激「あぁ、ようやくGPが帰って来てくれたんだ」と。

 

唯一回だけ行ったバックストレートスタンドから撮影

 木~土曜日までは一人でサーキットの自由席各所を回って観て写真を撮っていた。この時が一番鈴鹿サーキットの各所に行ったかもしれない。

 決勝日にはバスツアーで東京から友人2名が来ることになっていた。彼らも自由席。

 

鈴鹿サーキットクイーンのお姉さん❤

 

 当時は敬愛するドライバー、ジェームス・ハント選手ニキ・ラウダ選手が所属したマールボロ・マクラーレンが一番好きなチームだった。

 決勝日には'83年WEC JAPANで購入したマールボロのシャツを着て行った。

 もう1年早く鈴鹿で開催されていたらニキ・ラウダ選手の走りが再び観られたのだが…。

 

 日本GPでベネトンマシンの美しさに見惚れ、且つ「タバコは健康によくない」という意識からベネトンに鞍替えしたのだ。

 

アラン・プロスト選手/マクラーレンMP4/3/TAGポルシェ

 前年のワールドチャンピオン。’87年はタイトル争いに絡むも最終戦までには脱落していた。

 

ステファン・ヨハンソン選手/マクラーレンMP4/3/TAGポルシェ

 日本でも走ってくれていたヨハンソン選手が「マクラーレンのドライバーになって帰って来た」のはとても嬉しかった。

 サウンド・オブ・エンジンや鈴鹿のイベントで来て欲しいドライバーだ。

 

京商1/64ミニカーのマクラーレンMP4/3もヨハンソン車を選んだ

 

 

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