'87鈴鹿F1日本GPの思い出 佐藤琢磨選手と意外な接点
本日は2017年F1日本GP決勝。ドルフィンは月曜日のBSフジでのTV観戦。それまでネットは封印して結果を知らないようにしなければならない。
「今のF1つまらなくなっちゃったなぁ」「2輪の方がバトルあって面白い」「無料TV放送が無いから全然わからない」―と言いつつも、鈴鹿に行っている方のブログ等を読むと疼いてしまう。血が沸いてきてしまうのだ。
これにちなんで書く、初めて鈴鹿サーキットでF1が開催された’87年F1日本GPの思い出を読んで頂きたい。
’87F1日本GPチケット
10年間待ちに待ったF1が日本で開催される。
F1人気は急上昇してチケット獲得も一苦労。「往復ハガキで応募。観戦エリア第三希望まで記入。1人1通まで」
友人に葉書を書いてもらって30枚くらい送った。自由席エリアで3通くらいが当選した。
一緒にレース観戦に行っていた友人分も含めて3枚チケットを取ったのだった。
2輪パーキングチケット3日分
当時は名古屋に住んでいたので、毎日バイクで❝通った❞。
初開催サーキットということで木曜日に1時間だけ慣熟走行が行われたので、木曜日から通ったのだ。
木曜日は朝から「何か走らないかな~」とヘアピンに行っていたが、何も走りはしなかった。今らなドライバーがピット入りするのをスタンド裏で待つくらいの事はしたいたのだが、当時は思いもつかなかった。
そう、当時はF1ドライバーでもホテルから遊園地を歩いて来てメインスタンドの階段を下りたパドックトンネルからピット入りしていたのだ。
バックストレートスタンドから撮影
金土のフリー走行、予選も今より走行時間が長かったので、2日間かけて鈴鹿サーキットをほぼ1周して撮っていた。
小雨がちの天候だったのでリアウイング翼端板からの❝飛行機雲❞もよく発生していた。これはカッコ良かったなぁ。
当時はまだ210ミリ望遠しか無かったので、ヘアピンでさえもマシンまで遠かった。
しかもF1は速くてなかなか良い写真が撮れていなかった。
ヘアピンからスプーンに向かうポイント
決勝日は東京からバスツアーで友人2名が合流。
ドルフィンはゼミの友人の津市にある実家に泊まらせてもらい、彼と一緒に鈴鹿入り。
泊まる時にはスキヤキをご馳走になったりお世話になったのだが、ちゃんとお礼ができていただろうか? あまり記憶にないので心残り。その友人とは卒業後に交流が無くなってしまったので「あの時のお礼を言いたい」と『探偵ナイトスクープ』に依頼しようかとも考えている。
ヘアピン
決勝が終わると、余韻にふけることなく速攻で帰った。―と言うのも、富士での’77年F1日本GPを一緒に観戦した友人と一緒にTV放送を観たかったからだ。それが10年間待った私たちの儀式のように感じたからだ。
渋滞する名四国道をスリ抜けながらバイクを走らせ、放送時間ギリギリに友人のマンションに到着し、一緒にTV放送を観る事ができたのだった。
彼はサーキット観戦こそ何十年もできていないが、今でも2輪、4輪ともにドルフィンより詳しい。また彼と一緒に観戦に行きたいものだ。
最終コーナーの土手からスタートを撮影
佐藤琢磨選手がレーシングドライバーを目指すきっかけとなったエピソードが紹介される時に使用されるのが下(↓)の写真。'87年日本GP観戦された時のものです。
この琢磨少年の黄色い帽子の上にあるオレンジの物体―赤丸印をしている部分ですが、実はコレ。
ドルフィンが作った中嶋応援旗(↓)なのです!
いやぁ~、意外なところに佐藤琢磨選手と繋がっていました。
貴重なフィルムで撮影していた当時、雑観を撮る事は無かったのでこの写真は掲載してくれたモーター誌から拝借したもの。
翌年から自分で作った旗を記念に残しておくために写真に収めるようになりました。
モーター誌のステッカーを貼っていたので、その1誌しか掲載されなかった
当時は望遠レンズと標準レンズを交換しながら撮影していた。
キャンギャルや展示車を撮る際は標準レンズに交換する不便さを解消するために、後年はコンパクトカメラを用意。ベネトンのウエストバッグに入れてサッと取り出して撮影できるようにしていた。
モービル1のお姉さん
F1だけにキャンギャルのレベルも高かった。
同じ年の夏の鈴鹿8耐で「カワイイ♡」と思っていた3名。8耐では別々のチームに付いていたがF1で集結。❝ドリームチーム❞と呼んでいた。
スポンサーもドルフィンと同じ好みだったのか?
決勝は小雨がちで寒かったので、お姉さんたちも厚着。
今はもうアラフィフになっているはず…。










