最初のセナと最後のセナ
その昔、モーター誌のイギリスF3コーナーで「優勝AS・ダ・シルバ」掲載されていると「またコイツが勝ったのか!?」と、あまりの強さに驚いていた。
F1にステップアップするや、アイルトン・セナと表記されるようになった。
たまにTV放送があると、たいていはN・マンセルと絡んでリタイアしていた。「またコイツとマンセルか!?」と、相性の悪さに驚いていた。
最初のセナ
'87年日本GPフリー走行
最初にセナの素顔を見たのは'87年日本GPのフリー走行の時。
マシントラブルでヘアピンでストップし、走行時間が終わり“迎え”が来るまで待っていた。
日本人にとってこの時のセナは、まだ“F1ドライバーの一人”に過ぎなかった。ヘルメットを脱ぎ素顔をさらしても写真に撮る人は少なかった。
翌年、マクラーレン/ホンダに移籍してから人気は高まり、日本GPで優勝しチャンピオンを決定した事で人気が爆発的したと思う。ドルフィンもこの優勝には目頭が熱くなった。
後に古舘伊知郎さんの実況で名付けられた「音速の貴公子」が彼の代名詞になった。
'89年にプロストと絡んだ時はまだ「レーシング・アクシデント」で済んだが、翌年に仕返しをした事で彼に対する見方が変わった。
それからというもの、毎年、日本では問題を起こしてきた。事前に順位を決める八百長や、トップ争い以外の者が“抜いた”事に立腹して暴行を加えたり…。
「セナ様」と溺愛する日本のファンや、F1熱を下げたくないマスコミが擁護したため図に乗る一方―に見えた。
最後のセナ

'95パシフィックGP決勝
ウイリアムズに移籍した'95年のパシフィックGPではスタート直後の1コーナーで接触、リタイアに終わった。
コンクリートウォールに腰かけるセナの姿が彼を見た最後となってしまった。この時は鈴鹿でセナ+ウイリアムズがどれほどスゴイものかを見直せるものと思っていたのだが…。
亡くなったドライバーをいつまでもネチネチ非難しても仕方ないのだが、彼の素晴らしさを再認識する事無くこの世を去ってしまったのだから仕方が無い。
今でも雑誌等はネタが尽きたりオフシーズンにはセナ特集を行っている。「あぁ、まだセナで儲けているのか」と思ってしまうのだった。

