芸術の国イタリア MotoMorini GT175
 

 

 

 

 

 

中島飛行機製作所で仕事をしていた

 

荻原鉄工の創始者は

 

自動車プレス金型の依頼を請け負った

 

多分、悪戦苦闘したであろう。

 

日本の自動車産業の生産技術は

 

発展途上だった。

 

自動車大国のアメリカ

 

生産技術は最先端だった。

 

後に

 

ゼロ戦のエンジンを作るのに、アメリカの

 

工作機械も使用されていたと聞いた。
 

時が経ち

 

豊かになれば


汚れる、地道な仕事は、人気がなくなり

 

他の者にやらせて、買えば良い 

 

そんな、状況になった のか?

 

金型は自動車を作る工具に過ぎない

 

と、言ってしまえば、それまでだが

 

日本の自動車産業は、焼野原から始まり、

 

物の無い中で始まり、知識も乏しかった。

 

自動車を作る、生産技術の基礎が無かったのである。

 

 

時代は、日本に移ろうとしていた。

 

韓国では金型の専門大学を作るとか

 

そんな時代だった。

 

荻原鉄工の二代目社長は、世界の自動車メーカー

 

を駆けずり回って、金型をかき集めていた。

 

荻原鉄工の正面の横には、各国の旗が、毎日見られた。

 

自分も、スゥエーデンのSAABの仕事を

 

やる事になって、この時は、缶詰状態になって、仕事をした。

 

そこで、こんな話を聞いた、
 

以前にスゥエーデンのVOLVO社の担当者が

 

今度、 SAABの担当者で来て、びっくりしたと

 

その担当者曰く、 VOLVO、SAABを行ったり来たりして、

 

役職も上がり。給料も上がる と


逆に、荻原鉄工の担当者が、25年ほど勤務している と

 

自慢げに話したら、 ビックリされた という話だった

 

能力が無い! と思ったらしい。

 

当時、金型一つ設計すると、かなり良い金額だった、。

 

費用は、

 

製図用紙と鉛筆、消しゴム、それと、電話代で

 

仕事は、やり切れない ほどあった。

 

残念ながら

 

この仕事は、食い溜めが、出来ない事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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花はどこにいった