五月の連休
浜松まつりの
少し前に集合した、
三人だった
仲間意識を持ちつつ
自分との闘い
機械設計の勉学に励み
向上心を持って、生活する
初心貫徹の心構えである。
今と違い、残業規制は無い
ほぼ毎日
9時まで、仕事して 金を稼ぐ
寮に戻り
ガラス棚に入った夜食を見て
名札を確認して、テーブルに持っていく
お茶を注ぎ、箸を取る
食事は一月分の注文書に
考える事もなく、毎朝、毎晩、
全部〇印を書く。
日曜日は休み
口数も少なく、食事が終わり
部屋に行き、本をめくる
一息して風呂に向かう
そんな、規則正しい生活も
一月ほど経過すれば
緩くなって 何処かに行った
酒好きな、仲間に 誘われて
世間話とほろ酔いが、習慣になった。
眠りにつくのが、簡単になって
一日が終わる
この寮は
四階建ての独身寮だった
それが四棟あって
二棟は、ほぼ空き部屋だった。
一番奥に風呂、中央の食堂はゆったり大きい
週末は、屋上に洗濯物を干す
そこに
全国から集まっていた30人ぐらいの
ヤマハ技術者の若者たちが
間借して住んでいた。
遠州製作所の寮生は、5人程の少なさだった
そこに、訳の分からない、三人が加わり
当たり前の様な顔をして、
住んでいた。
寮費、食事 光熱費 ほか 無料なんて
漏らしては、いけない事だったが
自然と知れて、
たぶん
「 何だよ あいつら 」的に 思われた。
仕事場には、歩いて15分程で行ける
事務所は大変広く
ワンフロワーに
設計、実験 庶務係がいた
後に分かったが
開発には
ヤマハ社員、遠州製作所の技術者、
ヘッドハンティングされた
ディーゼルエンジンメーカーの
いすづ自動車、小松製作所、日野自動車
などからきた 蒼々たるベテラン数名で
構成されていた、
事業として、
漁船用エンジンの、開発設計、製造
そんな
新規事業の混合部隊だった。
促成栽培の様な、組織は
個人商店の集まりの様で
立場、自尊心、給金 等
利害関係の思惑も、当然有った。
遠州製作所から見れば
ヤマハは新参者の企業
そんな気がした。
年も一回り以上離れた
遠州製作所の設計者の人達
有る時
「 三人足して三で割ると、ちょうど良い」
なんて言われた事がある。
その通りだと思った
性格、育ち、考え方が
全く異なっているのは、自覚していた。
明らかに個性的だった。
寮生と仕事が、一緒なので
すぐに気心が知れて
意見交換は、尽きなかった。
休日は 市内をめぐり
浜松城へ行ったり 海に行った
毎度の、餃子定食を、付き合い
色々な、旨いどころを、教えてもらった。
半年ほど経った時
担当者が、粋な企画をした
最高責任者の部長を
寮に招待し、
酒の席を、設けることになった。
週末の仕事が終わった日
三人の内
荷物の少ない
東京生まれ、東京育ちの
楽天家の部屋から始まった。
買い出しの、酒のつまみで
程よい、酔いから
伝説の話を聞いた。
トヨタ2000GTを、製作したヤマハ発動機
今はトヨタ自動車の仲間だが
当初 日産自動車のグループ入りを希望して
行ったが
川又会長に無碍にされて
破談にした と
話は、はずみ、笑いを誘いながら話す
こちらも、乗せられて
口も動いてしまった。
この後
数部屋を回って、帰ったらしい
ふと
調べてみた
エンジン設計 担当
なるほど …
名前が同じ
いつの日も遠くヤマハ発動機 開拓時代のうらばなし | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)
一つ上の、
私の担当者は、
開発が、佳境に入ると
時々、落ち込む事もあった
図面を、真っ赤に書かれて
返されたと嘆く
部長から
「 空気になれ 」 と
言われたと、話した。
我ら三人は
それなりの悩みで、
「 居心地が良い 」 なんて
喜んで、いては
ダメだったんだが …
その後
どんな話が有ったのか?
ヤマハ発動機の関係者は、
新井寮に、移動する事になって
朝も早く
浜名湖を見ながらの
通勤が始まった。
ところで
恋の季節
美しいビーナス





