派遣と言う、言葉が無かった時代だった。

 

この時、ヤマハ発動機

 

その後本田技研と

 

絡んだ自分だった。

 

時は

 

四輪に力を向けた本田技研

 

本田宗一郎の引退

 

ヤマハ本尊の日本楽器は 川島博

 

本田技研 二代目社長の 実弟。

 

川上源一創始のヤマハ発動機

 

配下の、小池久雄社長よって

 

密かに進軍しようとしていた。

 

戦いの条件は作られた。

 


ヤマハ発動機が、

 

二輪の主導権を取る作戦だった。

 

後にYH戦争と呼ばれた.

 

静岡県で聞く、ヤマハのアクセントが

 

「 違うなぁ … 」 と思った事がある

 

日本でピアノ作りを、始めた

 

山葉寅之助 

 

漢字の 「 山葉 」

 

だったのである。

 

楽器とバイクの街 浜松市    

 

 

 

 

 

 

 

 

早急な

 

開発部隊の増強で

 

設計者が必要な為

 

磐田市から東方面に、手あたり次第に

 

会社を探して苦労していた

 

東京まできて

 

ある会社に、辿り着いた

 

そこに 野心家

 

基本的に 仕事の依頼を

 

断らない、意欲有る、若き社長が

 

快諾して、忙しく動いた

 

説得したり、新聞募集して

 

とりあえず30名程集めて

 

行くことになった

 

その中に、自分はいた

 

食事、寮費など一切無料

 

「 金がたまりそう 」と

 

それに、ヤマハ発動機に

 

大いに興味があった。

 

断る理由も無かった、

 

まったく不安も無く

 

楽しみだった。

 

将棋の駒の様に進んだ。

 

慌ただしく その日

 

新幹線で

 

ヤマハ磐田市の本社に行き

 

人事担当者から

 

意外にも、行先は

 

浜松市、可美村の遠州製作所内

 

ヤマハ発動機 第五技術部

 

ディーゼルエンジンの開発部門

 

と言われた。

 

面影の有る 正門 左側の建物 

 

たしか 体育館だったが …

 

その先の 大きな建物の3階だったか?

 

そこに ディーゼルエンジン開発部隊

 

以前は織機設計課だったらしい

 

ヤマハの資本参加で、

 

一部工場内で

 

ゴルフカート、スノーモービルを

 

作っていた。

 

100年の歴史 

 

工作機械の遠州製作所

 

懐かしい …

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで

 

 

 

 

夏休み

 

 

 

旅の宿