江戸と浅草「隅田川の由来と歴史」(その5) | まっちーのブログ

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江戸と浅草「隅田川の由来と歴史」(その5)

 

そして時代は更に進み、室町時代となり、関東管領上杉氏の家老太田道灌の時代に隅田川の記述が成されているのです。

 

それは文明年間(1449~1486年)太田道灌が上杉側に敵対する千葉氏を打つため隅田川に橋を架けたというもので、「葛西志」「本朝通鑑」などがその間の事情を伝えています。

 

「鎌倉大草紙」は「資長(すけなが)(道灌)は文明10年(1478年)から翌年にかけて千葉氏を攻め、降伏させたと記し、その時架けた橋の事であろうと記しています。

 

また、「梅花無尽蔵」には、文明十八年(1486年)の春に資長(道灌)が鎌倉の建長寺・円覚寺の僧を招いて隅田川で舟遊びに興じたことが見え、このころのすみだ川はかなりの人々の知る川となっていたと思われます。

 

それは連歌師や歌人僧侶など多彩な人物を東下りの紀行文によって知る事ができます。

 

即ち文明十八年(1486年)十二月武蔵国を訪れた京都常光院の天台僧であり、二条派の歌人でもある堯恵が

「おもかげぞ 今も身にしむ角田川 あわれなりつる 袖の朝露」

「浪の上の 昔を問へは隅田川 霞や白き鳥の涙に」

と「北国紀行」の中で読んでいます。

 

また、関白近衛房嗣の子として生まれた天台僧の聖護院門跡興准后も同じ年に、この浅草に入り、

「ことはむ鳥だに見えよすみだ川都恋しと思うゆふべに」

「思う人なき身なれど隅田川名もむつましき都鳥哉」

「秋の水すみだ川原にさすらひて舟こぞりても月を見る哉」

と紀行文「廻国雑記」に記されています。更に連歌師であります宗牧が天文十四年(1545年)三月、江戸城を訪ね城主達山甲斐守の保護を受け、六月に隅田川を渡っているときに詠んだ句が「東国紀行」に見えます

「秋ならぬ木末の花も浅草の露流れそう角田川哉」

 

以上のようにこの当時のすみだ川を隅田川・角田川と記しており、すみだ川の名は変わることがなかったことがわかります。

 

なお、江戸城は大永四年(1524年)北条氏綱に攻略され太田道灌の主家、上杉氏の手から小田原北条氏の所有に移りました。

 

前に記した連歌師宗牧が江戸城を訪ね、城主遠山甲斐守と会いました。遠山氏は北条氏綱の重臣であります。

 

そしておおよそ六十五年を経て徳川時代を迎えることになります。