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板碑とは何か、寺院の寺伝縁起について

 

今回は板碑を中心に浅草の歴史を見ていきます。

板碑は鎌倉時代から桃山時代にかけて供養塔の一つとして建てられたものであります。そしてこの板碑は全国に及んでいますが、なんといっても関東一円に最も多く残されており、約二万基に及ぶといわれ、その材質は秩父地方で産出する緑泥片岩が用いられています。それでは何故このような板碑が作られるようになったのか?この点については「鎌倉に武家政権が成立したが、そこには武士達の権力抗争が絶えず鎌倉幕府を開いた源氏は三代にしてその正統が絶え、その後は北条氏の執権に伴って新旧の勢力は相互に反目を生み血で血を洗う結果を招きました。すなわち武家階級の主従関係は絶対的なものでひとたび戦乱ともなれば一族同族はもとより、かつての旧主旧友といえども刃を交え戦わなければなりませんでした。一方武家の都であります鎌倉において鎌倉新仏教の興隆がこのような時代背景をもたらした一因となっていたのである」といわれています。それは板碑建立の趣旨が「死者に対する追善はもとより己れ自身が生前供養し善根を施すことによって死後の世界において安楽が得られるよう願う逆修の内容が強く反映されているのであろう」と言われています。故に「阿弥陀浄土で往生するという祈願が多い」ことも当時の浄土信仰の一面をうかがうことができるわけです。ただし、板碑の建立者は法名であらわされることが多いので文献資料に登場する武士との比定は困難な場合が多いのですが、板碑の発生の時期や建立にかかわる経費などの点から多くの板碑建立者の中心が武士たちであったことはほぼ疑いないものと言われているのです。しかし時代が下り十五世紀半ばを過ぎると農民たちが協力して一基の板碑を建立したという例もかなりの数で見られ必ずしも武士達だけの信仰ではありませんでした。すなわち月待板碑(六地蔵が刻まれている)や庚申待板碑の出現は享徳の乱(1454年)あたりから農民たちが造立者となっています。これらは村民たちの収穫の感謝あるいは農作や現世の安穏を祈ってそれを板碑に刻んだものであります。

それでは板碑建立の趣旨が死者に対する追善供養である板碑を見てみようと思います。下記の建長七年(1255年)の板碑は全国でも古い年代に入るもので、しかも供養されている人物は源頼朝の父であります義朝の重臣であった鎌田兵衛正清の菩提を弔った石碑であり、この板碑を建立したものは鎌田兵衛正清の子孫あるいはその家臣であろうといわれています。その板碑は昭和五十一年新たに発見されたもので場所は神奈川県川崎市高津区の妙法寺という寺の参門近くの古井戸の地下から出土したものであります。

1、追分一里塚 ここからは嘉暦四年(1329年)銘の板碑と考えられていたと伝えられていますが今は残されていません。

1、龍宝寺 この寺院は寛永十二年(1635年)神田駿河台から移転してきたお寺ですが、当時墓の内庭に正応六年(1292年)銘の不動種子(梵字)の板碑があったといわれ今も現存するものの浅草に関する板碑かどうかわからない板碑です。

1、西福寺 この寺院も寛永十五年(1638年)神田駿河台から移転してきたお寺ですが、当時本堂の北側奥に積み上げられた無縁仏塔の中央部分に応永四年(1397年)銘の名号板碑がはめ込まれて今も残されているというが、浅草に関わる板碑かどうかわからないものです。

1、華徳院 この寺院も建長年間(1596~1614年)に霞が関から移転してきたお寺ですが、かつて応永十一年(1276年)銘の板碑を所蔵していましたが、現在は残されていません。また、浅草に関わるものかもわかってはいません。

以上がかつて板碑を有していた寺院であります。こうしてみると浅草寺を除くといずれも石浜(橋場・今戸を含む)地区に集まっていたことがわかります。

それでは供養塔の一つであります板碑が建てられていた石浜地区のそれぞれの寺院が何時頃からあったのか寺院の寺伝縁起を見てみるとまず板碑を有した保元寺は次のように記されています。

1、保元寺 「法源寺(帰命山薬王無量寿寺院法源寺)は宝亀元年(770年)に智海(伝大同元年806没)によって開かれた」と伝えられています。「東京市史稿」は「鎌倉時代に遡る真言ないし天台宗の寺院が永享年中(1429~1440年)に改宗されて浄土寺院になったもの」と推定しています。また「蓮門精舎旧詞」は「その前身を大日阿字堂のちの砂尾石浜道場」としている。更に「乙函書上」によると、「もと神明社(朝日神明社のちの石浜神社)の後ろにあったものが長禄二年(1458年)になって橋場に移転したといわれています」と記しています。

次いで総泉寺については

1、総泉寺 浅茅ケ原にあったとされています妙喜山総喜寺はその起源を梅若塚伝承に発し、梅若の母妙亀尼がその菩提を弔うために結んだ草庵に遡る寺院であります。当初は法相とも律相とも伝えられています。その後千葉介守を中興開祖として千葉氏の外護とするところになりました。そして総泉寺の寺院は会下寺と呼ばれていたと考えられ「小田原衆所領役帳」にも江戸会下寺領と記されています。一方、「新編武蔵風土記稿」には千葉氏の菩提寺として石浜禅林寺をその前身として記しています。

次いで長昌寺については

1、長昌寺 深栄山長昌寺はもと妙昌寺といって扇ケ芝に開かれました。弘安五年(1282年)浅草寺の僧寂海は日蓮の弟子の日常(富木常忍のことで中山法華教寺の開祖)と回答し、日蓮宗に帰依し日寂となって開いた寺院と伝えられています。そしてその長昌寺のあった石浜・橋場あたりは砂庵と呼ばれていたと言われ、「新編武蔵風土記稿」によれば、「砂庵長者という者がこの地を領有していたところからその地名がついた」という伝承を伝えていると記しています。

 

 

 

代表 まっちー音譜

 

株式会社 町田絲店 代表取締役

 

 

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ありがとうございますニヤリ

 

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前前菜

 

 
キヌアとアボガドのグリーンサラダ ジンジャードレッシング

 

 

 
バゲット 香ばしい香りがよかったです。

 

 

 
本日のシェフ おすすめスープ 牛蒡でした。

 

 

 
鮮魚(鱈)のブレゼ マリエール 浅利
グリーンアスパラガス 蕪

 

 

 
タルトシトロン

 

 

 
小菓子 マシュマロとフィナンシェ

 

 

 

 

美味しかったです!!

 

NAMIKI667とは、並木通りの銀座6丁目7番7号のことだったのですね!!

 

 

 

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