江戸と浅草「江戸幕府の経済政策(貨幣の鋳造)について」(その5)
このように全国統一を完成させるうえで徳川家康がとった経済政策の一つが貨幣制度の確立でありました。
江戸に幕府が開かれる二年前の慶長六年(1601年)には前記したように慶長大判を始め、小判・一分金・丁銀・豆板銀の鋳造が開始されたことからも知る事が出来ます。
文禄四年(1595年)徳川家康の求めに応じて今日から江戸に下った後藤庄三郎光次は江戸と駿府で小判の鋳造を行っており、この後藤の役所を「金座」と呼んだのであります。
江戸の「金座」は江戸城の常盤橋門の外にあり、その跡地は現在日本銀行が建てられています。
一方「銀座」は慶長六年(1601年)伏見に設置されていましたが、慶長十一年(1606年)には駿府に設けられました。
そして伏見の「銀座」はその後京に遷され、江戸の「銀座」は慶長十七年(1612年)駿府から移されました。
現在の京橋前の南で四町が与えられました。ここが現在正式名となっている「銀座」の町名になっているところであります。
この金座銀座は幕府の勘定所の支配を受ける役所として常設されたものであり、ここで小判・一分金・丁銀・豆板銀が鋳造されていたのであります。
それでは次に江戸時代の貨幣制度を見ていくことにします。
下にあげた図のように、江戸時代の貨幣制度は、金銀銅の三貨が併用されていたのです。
まず、金の単位は「両」「分」「朱」の三通りで、しかも四進法でありました。
つまり下記の通り、一両は4分、その一分は四朱でありました。
この単位に基づいて金貨が造られました。
はじめの頃は二分金は鋳造されませんでした。
また大判は朝廷・公家などの贈答用家臣への恩賞用として鋳造された特別な貨幣でありました。
その鋳造は天正年間、豊臣秀吉が室町将軍家の御用彫金師であります後藤家に命じさせて作らせたのが始めであります。
この様式は徳川家康によって引き継がれ江戸幕府は後藤宗家に独占的に鋳造を請け負わせました。
慶長大判金から始まる江戸幕府の大判は小判などに両替するときには当時七両ほどで幕末には二十両以上の価値があったと言われています。