江戸と浅草「不忍池と上野寛永寺の子院と寺領」(その11) | まっちーのブログ

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江戸と浅草「不忍池と上野寛永寺の子院と寺領」(その11)

17.車坂 寛永元年(1624年)に東叡山が建ってから同三年(1626年)その東方の下谷坂本通りの車坂を町屋として新坂本本町と唱え、東叡山の御門前地とした。それがいつしか下谷車坂町と呼ばれ一丁目から三丁目に分けられたという。

以上が寛文十一年(1671年)の新板江戸外図に記されている下谷丁・上野丁を始め、上野山内・不忍池・池之端として下谷入谷(坂本村)地区の当時の様子であります。

そして最後に寛永寺についてもう少し記しておきます。前記したように寛永二年(1625年)以降上野山内には寛永寺の堂塔伽藍が次々に創建され、その後も時代を追って次々に新しい伽藍や子院が造営されたと言います。

そして一度建てられた建物が次に建てられる建物によって山内の別の場所に移されると言ったことが次々に生じるようになった。

それは元禄の時代を見ても知られるように根本中堂が建立されることが決まるとその地にあった常行堂と法華堂が摺る鉢山の上にあった清水堂も現在地へ移建されている。

その理由はいずれも常時火を使う施設を伴う点にあったようであります。湯根に火災で個々の伽藍が失われた場合寛永寺はその伽藍をあえて一時的に再建するのを見合わせたり再建するにしてもその建立の地を変えていたのです。

寛永寺の総門である黒門は実に寛永の創建以来幕末まで五回も立て替えられているが一度も同じ場所には建て替えられてはいないのです。

法華堂と常行堂 尾張と紀伊の両徳川家の寄進されたもの

清水観音堂 天海自身が建立したもの 京都五条坂の清水寺を模して造られ、その本尊まで同寺からお迎えしたという千手観音である

下谷と上野3

下谷と上野4