藤原恭大選手が月間MVPを獲得した報を知った時、いささか驚きましたけれども、とても嬉しく思いました。私が藤原を初めて見たのが「第100回」の夏の甲子園でしたが、そのときはむしろ「根尾くんを見たい」という動機で足を運んだ甲子園でした。あの時のセンターの選手が、こんなに早くも月間MVPを獲ることになるとは…感慨に浸りました。
しかし、当の藤原は月間MVP発表のその日に登録抹消となってしまいました。先日の日本ハム戦で死球を受けたのが原因とのことです。
「そりゃね、野球ですからね。デッドボールは仕方がないよね。相手だって当てたいわけではなかっただろうしね。相手投手、立野ですか? 立野を責めるのはたぶんちがうと思う…」
正直に白状すると、そうは思えませんでした。そんな寛大な心を持ち合わせていない偏狭な自分がいることに気付いてしまいました。それだけ、今藤原の離脱は「痛い」と思いました。ファンの心を痛めるくらいの離脱であったことは間違いありません。
私のさらによくないところは、日本ハム球団にそれ以外の呪詛の言葉をいっぱい思い浮かべてしまったことです。毎年のようにソフトバンクには負けまくるし巨人にはあっさりと戦力を提供したりするし(逆に巨人で扱いに困った選手は引き取ってとりあえずの「ウィンウィン」を作るし)それぞれの「衛星球団かよ」と思ってみたり、さらにはゴールデンウィークの千葉のホームゲームをあちらの都合で飛ばされてゴールデンウィークの予定がすっぽり空いちゃうし河野はマリーンズ戦にしか勝たないし昨年は有原ばっかり当ててくるし…とか、事実と虚構も混じったような呪詛の言葉を脳内で繰り返したものです。
(※ファイターズファンの皆さんすみません。これは後ほど「間違ってる」という評価を己で行って回収しますのでひとまず書かせてください)
そうは言っても、実に心の狭い自分に辟易することになってしまうわけです。一時の快楽としてそう言ってみたものの、これは全く精神衛生上全くよろしくないわけです。ゴールデンウィークの千葉の試合がファイターズ選手のコロナ感染で飛んでしまったのは事実ですがこのような時代においてそれは「いつ、だれでも」かかる可能性がある「禍」であるわけです。これを以てかの球団を責めるのは筋違いだと思います(正直に言うと当時はそう思えませんでした)。河野がマリーンズ戦にしか勝たないのも事実かもしれませんが、マリーンズは後にこの左腕を攻略しています。そして有原は、きっと他球団にも勝ちまくっていたでしょう。ソフトバンクに負けまくるのは事実ですが、今年に関してはマリーンズにも負けまくっているのでこれは私たちが言うことではなくオリックスファンが言うべきことなのかもしれません(これは言われても仕方がないよと思う)。
さて、何が言いたいか。
本題に戻ると、私たちは藤原を離脱させた立野という投手の名前を忘れることはないであろうということです。さらに、おととし(だったと思う)荻野貴司が球宴に出ることが決まっていた時にやはりデッドボールを当てて球宴を辞退せざるを得ない事態としてしまった西武の平井も覚えています。さらにさかのぼって、2009年に当時選手だった井口が西武の大沼からデッドボールを受けて離脱を余儀なくされてしまったことも思い出してしまいました。
上記のように、「されたこと」はよく覚えています。ところで、マリーンズの選手もいくらか当てているとは思うのですけれども、ちょっと立ち止まって考えてみると…
驚くほど、全く思い出せないのです。思い出せたのは…
「近鉄トレーバーに当てた園川」
「西武清原に当てた平沼」
そして…
「西武細川を首投げしたベニー」
という、誰でも知っているようなインパクト絶大なものばかりでした。しかもトレーバーも清原もむしろ暴れているし、というものばかり。
つまり、「されたこと」はよく覚えているのですけれども、「したこと」というのはびっくりするくらい覚えていないのです。
これは、実に危険です。これこそが人間が一般的に生来持つ性質であるとするのは簡単かもしれません。しかし、それではいけないと思うのです。
戦争責任だって、そうです。「されたこと」はよく覚えているものの、「したこと」については忘れるか、忘れさせられるか、なかったことにしようとしているというものです。
自分のしたことがどういう効果を相手に及ぼすかということは、ずっと考えていかねばならないと思ったものです。また、されたことについても「やだな」と思うのは当然ですが、呪詛なり報復なりを企図したところで己が救われることはないだろうということも知っておきたいと思います。
優勝争いをするマリーンズにおいて、藤原選手の早期の復帰を願うばかりです。