根底にある〈孤独〉の問題… | 町亞聖オフィシャルブログ「As I am」Powered by Ameba

根底にある〈孤独〉の問題…

私が学長を務める毎年恒例の〈在宅医療カレッジin札幌〉無事に終了しました。2016年から開催していて今回でなんと9回目キラキラレポートが長くなってしまい2回に分けて報告しますメモ



2024年のテーマは「いま安楽死と尊厳死を考える」でスペシャルゲストはスペインやフランスを拠点に活動するジャーナリスト宮下洋一さん。



学生ヘルパーを経て障害のある人達の生きる権利に向き合い支援を続ける弁護士の長岡健太郎さん、日本エンドオブライフ・ケア協会の千田恵子さんをパネラーにお迎えしました。




世界各国の安楽死を10年の歳月をかけ丹念に取材してきた宮下さん。著書「安楽死を遂げるまで」と「安楽死を遂げた日本人」を出版していて、私も何度もご一緒しています。



まずはそもそも安楽死とはを丁寧に解説。オランダ、ベルギーなどで認められている〈積極的安楽死〉は医師が致死量の薬を直接投与するというもの。



多くの人が誤解していますが海外では安楽死が権利として認められているわけでも、積極的安楽死が医療として合法とされているわけではありません。(一部認めている国もありますが…)



6つの要件を満たした場合に積極的安楽死を実行した医師は送検を免れる、つまり〈犯罪〉にならないという免責の法律があるだけで、守られているのは医師ということです。



〈殺人〉ではない証拠として薬を処方する直前に医師との会話を動画に撮る作業が必ずあり、患者は「これから死にます」と明言しなければなりません。



またスイスなどで実施されている安楽死は、医師が薬を処方し患者自ら服用する、もしくは点滴のストッパーを外す行為で〈自殺幇助〉と呼びます。



アメリカでは安楽死を「Death with Dignity(尊厳死)」と表現しつつも容認されてるのは、この自殺幇助であり医師による薬物投与は認められていません。



安楽死が認められている国で実施されているのは〈積極的安楽死〉と〈自殺幇助〉で、延命治療を中止したり差し控える行為を、日本では〈尊厳死〉として表現しています。



混同されがちな安楽死と尊厳死。ですが積極的安楽死と自殺幇助が医療と密接なのは「Doctore assisted Death」や「Medical aid Dying」という英語訳からも明らかです。



海外の様々なケースを紹介してくれましたが共通しているのは〈本人の意思〉が明確に表示されていること。個人主義が確立している欧米では安楽死を選択肢のひとつと考え、個人の意思を家族が尊重します。



末期ではないがんだった81歳のイギリス人女性。夫に先立たれ老人ホームで暮らしていましたが、検査と薬漬けの人生は望まず



また老人ホームで死ぬまで生活を続けることが耐えられないと安楽死を選択。枕元にはスーツケースに入れられた夫からの4000枚のラブレターが…。



また余命半年と宣告された68歳のスウェーデン人の女性のがん患者。痛みを耐え抜くことの報酬でもあるのか…苦しむ姿を子供達に見せたくないと安楽死を選びました。



彼女と同じく産婦人科医の夫は「彼女が決めたことなので後悔はない」と話しますが、自分は安楽死をしたいかは分からないとのこと。今は別の女性と暮らし新たな人生を歩んでいます。



「代替治療がない」ことが安楽死が容認される条件の1つですが、治療を継続するかどうかを最終的に判断するのは本人であり、生活や家庭環境も関係してきます。



さらに「耐え難い痛み」と「回復の見込みがない」に関しても、痛みは個人差が大きく自己申告に基づいていて、その判断基準は曖昧で高齢であることを理由に条件に当てはまらなくとも個人の意思が尊重されるそう。



「安楽死の罠」と宮下さんは言っていましたがアメリカで取材した50代に末期の肛門がんと診断された女性の場合は、1度は自殺幇助を希望しましたが



別の放射線医のセカンドオピニオンでまだ治療法があることが分かり安楽死を選択せずに済み、78歳の今も健在だそう。実は彼女が自殺幇助を望んだのは家族関係が原因で



医師は彼女の家庭環境に介入し関係修復も支援しました。「人々は耐えられない痛みのせいで安楽死を選ぶわけではないのです」という医師の言葉と



「Great to be alive(生きていて良かった)」という彼女の言葉を医療者は重く受け止めて欲しい。宮下さんは出会った医師により道が分かれてしまうことがあると言っていました。



このように海外でも個人の意思や自己決定を尊重してはいますが、安楽死を願う要因に家族の問題が隠れていることがあります。



家族や地域など共同体の繋がりが強く、人目を気にして生きることが避けられない日本では「1人で生きているわけではない」という想いを多くの人が持っています。



そんな日本では必ずしも個人の意思を反映しているわけではなく、周囲に迷惑をかけたくないという想いがあり、死を個人のものと捉えられない文化的な難しさがあると宮下さん。



また1970年代から長年議論してきたオランダでさえ治療法がない終末期ではない人にも、安楽死の適用が拡大解釈されてしまう〈滑る坂〉という事態が起きていて



当初、安楽死に賛成した医師からも末期がんの患者への最期の手段として限定的に認めたのに、「当然の権利」になりつつあることを危惧する声が上がっているのです。



複合疾患を理由とした高齢者の安楽死、夫婦同時安楽死、さらに精神疾患の患者や認知症の人にも安楽死が適用されています。別の国では視覚障害者の事例も…。



もし日本で安楽死が認められたら同じことが起きる可能性があり、難病のALS患者や障害のある人達はずっと安楽死の法制化に反対の声を上げています。



「死に方は生き方でもあり他人が決めることではない」と安楽死に反対はしていないと話す宮下さん。けれどもそもそも安楽死、尊厳死、緩和ケアの違いを国民が知らない現状があり、まだやるべきことがあるとも。



精神疾患の人の安楽死の根底には〈孤独〉の問題もあり、死を急がなくても良い社会にすることが先決。他にも安楽死に関わる医師の苦悩や残された家族がどんな想いで生きているのかなども知る必要があるとのこと。



〈在宅医療カレッジin札幌〉レポート②に続きます🍀