だから自分は生きる。。。 | 町亞聖オフィシャルブログ「As I am」Powered by Ameba

だから自分は生きる。。。

福岡で開催された第20回日本臨床腫瘍学会が主催する市民公開講座の座談会で、歌人で細胞生物学者の永田和宏先生とご一緒することが出来ました。



永田さんの奥様は日本を代表する歌人の河野裕子さんで2010年に乳がんで亡くなっています。講演では2人で詠んだ歌と共に、若かりし頃の出逢いから10年におよんだ闘病を振り返った永田さん。



細胞生物学者としてがんの研究にも携わっていた永田さんは、奥様ががんの告知を受けた時はなるべく平静を装っていたそうですが、実際には動揺は隠すことが出来ておらず奥様はこんな歌を詠みました。


「何といふ顔をしてわれを見るものか私はここよ吊り橋じゃない」



そして病気に負けないようにと永田さんは変わらぬ暮らしを送ろうと心掛けますが、河野さんは〈置いてけぼり〉にされたような寂しさを感じていたそう。


「今ならばまつすぐに言ふ夫ならば庇つて欲しかった医学書閉ぢて」


「ああ寒いわたしの左側に居てほしい暖かな体、もたれるために」



精神的に不安定な時期も長く続き嵐のような日々を著書「歌に私は泣くだらう」に綴っている永田さん。一緒に死のうと何度も思ったこともあったそう。



そしてがんの手術から8年後に再発が分かった時の奥様は、静かに凪いだ水面のような状況で当事者だけが辿り着ける境地だったと永田さん。



一方で本人よりも衝撃が大きく狼狽えてしまったのは永田さんで、奥様の前で何度も何度も泣いたと正直に話してくれました。



ですが奥様は自分のことのように嘆き悲しんでくれる夫の姿を見て嬉しかったんだと思うと言う永田さんの言葉にハッとさせられました。



私達家族も末期がんの母の前では決して泣かないと決めていました。そんな母の命の限りと向き合う日々に耐えきれなくなった父が



ある日お酒を飲んで酔っ払い「なんでみんな笑っているんだ。もうすぐ母さん死んじゃうんだぞ」と母の目の前で言い放ち慟哭したことがありました。



母には言語障害があったのでまだ病名を告げていなかったので、ダメ父は何てことをしてくれたんだと今の今まで思っていました。



ですが振り返るとこの時母は「困った人ね」と言わんばかりの慈愛に満ちた笑顔をしていました。がんと知らずとも深刻な病気であることは本人も分かっていたと思います。



河野さんと同じ気持ちで母は父を見守っていたんだと気付かされました。そして私も母の前で素直に泣いても良かったのかと。。。



様々な想いを包み隠さずに歌を詠んできた永田さんでさえ奥様に伝えられなかったことがあるそう。「君は可愛かった」そして「俺でよかったのか」という言葉。



息を引き取る前の日まで永田さんを想い命を燃やして歌を詠み続けた河野裕子さん。人は最後まで誰かのために祈ることが出来るということを教えてくれています。



「死者は生者の記憶の中に生きる」永田さんが歌を詠み続けるのは奥様との思い出や記憶を形に残すため。



「自分が生きている間は奥様もまた生き続ける、だから自分は生きる」永田さんの語り口は穏やかでありながら力強く心に響きましたクローバー



我が家には沢山の母の写真が残っています。20年以上が経っても未だに思い出して泣くことがありますが



〈お母さんを思い出しながら生きる〉それで良いのではと永田さんは優しく言ってくれました



僭越ですが私も介護十年、がんを見つけてあげられなかった責任を感じていること、在宅で看取ったこと



何より分身のような存在を失った経験が重なっていて、またゆっくりお話をさせていただきたいと思いましたクローバー