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never again

〈思い立ったら今年は旅に出よう〜広島で平和を願う後編〜〉



広島平和記念資料館で保管管理されてきた「原爆の絵」が描かれたのは、1974から75 年にかけてNHK 中国本部(広島放送局)が募集したことがきっかけでした。



焼け野原となった広島の光景を写した写真の多くは原爆投下後に広島に入った米軍などが撮影したものであり〈その瞬間〉ではありません。



原爆が炸裂したその瞬間に居合わせた人達が何を見て何を経験したのかということは、ほとんど記録が残されておらず、被爆者自身が描いた「原爆の絵」はその空白を埋める貴重な資料となるもの。


この時に寄せられた2225 点の絵と2002 年に中国新聞社の協力のもとで2回目の募集が実施されて集まった1338 点、そしてその後に寄せられたものを含めると5000 点以上になるそうです。



長年、被爆の経験を語れずにいた方も多く、心の中にしまい続けていた原爆投下直後の惨状を描いた市民による「原爆の絵」には強いメッセージが込められていることに改めて気付かされました。




「相生橋で燃える路面電車」「川に逃げる学徒の群れ」などの作者高原良雄さんは1974年に絵を描いた1人。爆心地から約700mで被爆。至近距離でしたが石垣が熱線や爆風を弱めてくれたそう。



瓦礫には無数の遺体が埋まり川べりには鮮血に染まる人々がひしめいていました。悶え苦しむ人々の顔が脳裏に焼き付き、戦後3年間は絵筆を握ることができなかった高原さん。



「世界の人よ今一度考へて呉れ」絵だけでは表現しきれない悲惨さを最後の17枚目に高原さんはこう綴ったそうです。



そして「喉が渇き黒い雨を口で受ける女性」の作者は爆心地からわずか260mの場所で被爆し奇跡的に助かった高蔵信子さん。原爆に奪われた一人一人の命の重みを想像し



生き残った人たちのその後の人生にも思いを寄せて欲しいと願い、65歳から10年余り修学旅行の学生達に体験を語っていたという記事を見つけました。



「血を吐きながら亡くなった弟」の作者の山下正人さんは、衣料品店を営みながら原爆の絵や彫刻を通して平和を訴えたそう。18歳で被爆死した弟への思いを文章や絵本にしていました。



またあの日たまたま広島で働く自分を疎開先の山口から訪ねて来ていて被爆した母の行方を探し歩いた中で目撃した阿鼻叫喚の広島の惨劇や



自らも白血病を発症し大量の輸血を受けられたおかげで奇跡的に助かったこと、そしてその後の暮らしなどを「ピカドン地獄追憶記」というタイトルの長い手記に綴っていたのは早川耐子さん。



「一瞬に生皮を剥ぎ取られた生命が、納得できぬまま爛れた肉体に取り憑いたように、タッタッタッと私のそばを走り抜けた地獄絵さながらの光景



屠殺場に並べられた動物のような段原小学校の人々の姿と共に、私にとって原爆は昨日のことのように鮮明であり、その昨日の痛みを背負って59年の今日を迎えています。」



「核廃絶なくして神も正義もあり得ない。世界中の人々に訴えたい。もう被爆者をつくらないで」2004年に行われた平和行進の日で締め括られている手記の最後に早川さんが綴ったメッセージです。



平和記念資料館を訪れていた9割ぐらいは外国の方で、感想ノートには沢山の英語のメッセージが書かれていました。



Peace is the most important thing in the wrold. This shoud never happen agein.



never agine2度と悲劇を繰り返さない〉このシンプルで当たり前のこの言葉を大事にしなければと強く思うと同時に



平均年齢も84歳を超えて被爆者なき時代が刻一刻と迫ってきています。私も含めて戦争を知らない世代が記憶を継承していくことの大切さを噛み締めた時間になりました




禎子さんが亡くなったことをきっかけに原爆で亡くなった子供達を鎮魂するために作られた折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像「原爆の子の像」を見上げる小さな男の子。




未来の世代のために平和を願うだけでなく平和な世界を築くのは今を生きる私達大人の使命だとしっかりと胸に刻んだ広島旅でしたクローバー