涙を流すだけでなく。。。
第二次世界大戦末期の沖縄戦で人類史上類のない爆弾を積んだ戦闘機もろとも敵艦に体当たりし戦死した陸軍特別攻撃隊員は1036人。
そのうち本土最南端にあった鹿児島県の知覧基地から439人と最も多くの特攻隊員が飛び立ったことからこの知覧の地に
隊員達の遺書をはじめ遺影や遺品などを保存展示し後世に戦争の虚しさや平和の尊さを語り継ぐための知覧特攻平和会館が作られました。
全国から集められた特攻隊員の中で最年少は17歳。これが永遠の別れとしたためられた遺書の文字は10代20代とは思えないほどの達筆でその多くは〈母〉に宛てたものでした。
杉林の中に復元された特攻直前に隊員が過ごした三角兵舎。ここで若き隊員達は日の丸に寄せ書きを書いたり故郷へ送る遺書や手紙を書いたそう。
親不孝を詫び故郷に残していく家族の健康と幸せを願うもの、辞世の句を残したもの、国のために散るのだから泣かないで欲しい、自分は笑って征きますと書かれたものも。
その中に婚約者に向けた遺書があり過去は忘れて現在を貴方は生きて幸せになって欲しいと綴りながらも
「会い度い(たい) 話し度い(たい) 無性に」と2度と逢えない哀しみに満ちた遺書に慟哭を禁じ得ませんでした。
〈薩摩富士〉とも呼ばれる半島南端にそびえる開聞岳。知覧基地から出撃した特攻隊員が最期に目に焼き付けた
故郷日本の景色がこの開聞岳だと思うとその時と変わらないであろう美しい佇まいに胸が締め付けられました。
戦争の記憶を風化させたくないと願う遺族や友人から託された若者達の〈声なき声〉を前にただ涙を流すだけではなく不戦の誓いと恒久の平和を守るために出来ることを考えていきたい。
終戦から77年、戦争をしていない日本に生まれたからこそ伝えていけることがあるはず。今度は姪っ子達と知覧特攻平和会館を訪れたいと思います。
そして町家のルーツである与論島にもいつか連れて行ってあげたいです🍀