えっせい | 町亞聖オフィシャルブログ「As I am」Powered by Ameba

えっせい

社会福祉法人全国社会福祉協議会が
出版している月刊誌"ふれあいケア"


「えっせい」というコーナーを
5月号から半年間担当することにメモ


"出来ないことではなく
                   出来ることを数える"


“伝える”ことをなりわいにしてから早いもので24年。介護や医療を生涯のテーマに取材や講演をしていますがこれには訳があります。

18歳、高校3年生のときに母がくも膜下出血で倒れ言語障害と右半身マヒの後遺症のため車椅子の生活になりました。

まだ高次脳機能障害という診断名はなく医師からは知能が低下しますと言われました。まさか10代で母の介護に直面することになるとは想像もしていませんでしたし、母自身も40歳という若さで重度障害者になるとは思っていなかったと思います。

介護保険制度もなく家族介護が当たり前の時代。母の看病、慣れない家事、中学生の弟と小学生の妹の母親代わり、そして受験・・・全てが私の肩に。

さらに典型的な九州男児の父は酒飲みで機嫌の悪いときは度々卓袱台をひっくり返すことも。経済的にも苦しくなりまさに出口の無いトンネルに迷い込んでしまったようでした。「どうして私だけが」と運命を恨んだこともあります。

障害者の母と飲んだくれの父・・・人生を諦めても仕方がない状況でしたが、私を踏み留まらせてくれたのは弟と妹の存在でした。

「諦めなければ自分の人生を切り開くことができる」と2人に思ってもらいたかったですし、そう強く願っていたのは私自身だったからです。

母との新しい生活は試行錯誤の連続でした。当時はバリアフリーという言葉も知られておらず町中も家の中も段差だらけで、リハビリは自宅に帰ってきてからが本番でした。

その中で私は「出来ないことではなく出来ることを数える」という発想の転換をすることにしました。左手で出来ることは何だろうと考え、お茶碗を洗う、洗濯物をたたむなど時間はかかっても母にやってもらいました。

本人から可能性を奪うのは周囲の“出来ない”や“無理”という思い込みや決めつけです。出来ることが増えていくと元気な頃と同じような天真爛漫で明るいひまわりのような笑顔を母も見せてくれるようになりました。

家族だからこそ病気になった姿や変わりゆく姿を簡単に受け入れることができません。私も母が元気になる夢を何度も見て涙しましたが、嘆いていても障害のない状態に戻るわけではありません。

ありのままの現実を受け入れること、そして発想の転換により介護は辛くて大変なものから創意工夫次第で楽しめるものに変わりました。

「母のように障害があっても住み慣れた地域で当たり前の暮らしができる社会にしたい」母が与えてくれた18歳の時からの私の目標です。

自分で言うのもなんですが(汗)波瀾万丈の人生を紐解きながら“もし自分だったら”と考えてもらう気づきの種をお渡しできればと思います。