人間回復 | 町亞聖オフィシャルブログ「As I am」Powered by Ameba

人間回復

在宅医療カレッジ34のゲストは
"攻めのリハビリテーション"の実践で
知られる脳リハ医の酒向正春先生ひらめき電球


テーマは「超高齢社会における
"人間回復"できる街づくりとは」


40代で脳神経外科からリハビリ医に
転身した酒向正春先生は練馬にある


病院から在宅まで切れ目のない
リハビリテーションを提供する
大泉学園複合施設の施設長を務め


様々な地域と連携をはかりながら
"タウンリハ"が出来る街づくりに
取り組んでいらっしゃいます星


立派に生きて立派に死ねる社会を
実現するために必要となるのは


急性期の廃用を予防するリハビリ
生活を安定させるための回復期の


攻めのリハビリ、地域に戻った後
一生続く維持期のタウンリハであり


患者に合わせたチームアプローチを
地域の事情に応じて調整するのが
リハビリ医の役割だと指摘します。


人間回復するのが"リハビリ医療"クローバー


脳画像によって残存能力を診断し
患者さんの年齢や病気の状態から


人間力をどれぐらい回復できるか
科学的に判断できると酒向先生。


2000年代における脳卒中の医療と
地域包括ケアと街づくりを年表で


紐解いてくれた酒向先生のお話を
聞いていて思い出すのは母のこと。


今から30年前にくも膜下出血で
倒れた母の本当のリハビリは
家に帰って来てからが本番でした。


当時はバリアフリーと言う言葉も
知られておらず地域や社会の中は
ハード面もソフト面もバリアだらけ。


そんな社会環境の中で車椅子の母の
"出来ること"を増やしていくために
どんどん外に出て行きましたし


母親として役割が果たせるように
家事も創意工夫をしていきました。


2000年までリハビリテーションは
暗黒の時代だったと酒向先生も
はっきりと言っていましたが


病院を退院したら患者や家族は
頼ることのできる場所はなく
自分達で何とかするしかなかった。


知識は全くありませんでしたが母の
"人間回復"が出来ていたと思います。


治療薬の登場などで救命率が
上がった脳卒中や現代の医療では


治せない認知症の人が残存能力を
活かして日常生活を続けるためには


酒向先生が提唱する社会参加や
社会貢献ができる街づくりにより


生活をしながらリハビリが出来る
"タウンリハ"は絶対に必要です星


先生が何故リハ医になったのか?


人間に目がいくと暮らしに目がいき
地域に目がいくようになったから。


自然に"街づくり"がライフワークに
なった先生はプロデューサーとして


健康医療福祉都市構想を提唱し
24時間安心して散歩ができる
初台ヘルシーロードを作ったり


二子玉川では東急電鉄と協力し
街に出ると元気になる環境整備を


現在は練馬で老人保健施設の機能を
活用した人間回復する"攻めリハ"を
提供する複合施設を運営しています。


さらに医療や介護だけでなく
あらゆる業種が力を合わせる
"ブレインヘルス産業"による


日本発の都市再生モデルを構築し
世界貢献したいと酒向正春先生。
 

どうしたら酒向先生みたいに
出来るのかという質問への答えは
とてもシンプルなものでした。。。


"1人の患者さんに真摯に向き合うと
地域での連携は出来るようになる"


また自分や家族が入りたいと思える
病院でありたいとも語っていましたが


医療だけでなく介護にも街づくりにも
この考えは当てはまると思います。


自分ならばどんな介護を受けたいか
自分ならばどんな街に住みたいかと


自分事として想像力を働かせると
導き出される答えは同じはず。。。


"同じものを見方を変えると別世界に"


この柔軟で豊かな発想原点は
故郷愛媛の宇和島にありました。


宇和島駅は四国の鉄道の終着駅と
言われていますが酒向先生にとって


すべてがこの駅からスタートした
"始発駅"であり東京や世界へと繋がる
自分で決めて歩み出した道の始まりクローバー


90才まで現役継続が出来るように 
適当に適度に働く心掛けが必要で
100歳を超えて生きる予定だそう!?


"タウンリハ"ができる街づくりは
医師や専門家だけの力では出来ず
そこで暮らす当事者の声が必要です


私の原点も車椅子になった母であり
住み慣れた地域で当たり前の生活を


送るためにはどうしたら良いのか
介護家族の当事者の1人として
発信していきたいと思ったから。。。


"目の前の患者さんを笑顔にしたい"
常にこの原点を忘れない酒向先生


人生では出逢うべき人には必ず
出逢えると言いますが酒向先生との 
出逢いもその大切なひとつです星


酒向先生ありがとうございました音譜