生活者であり1人の人間…
人権教育啓発推進センターが発行する月刊誌「アイユ」12月号では、日本語を母語としない若者の自立就労支援などに取り組むNPO法人青少年自立援助センターの田中紀宝さんにお話を伺いました。
不登校を経験し16才でフィリピンのハイスクールに留学。言葉も分からない自分を受け入れてくれたフィリピンに恩返しをしたいと思ったことが原点です。田中さんインタビュー後半です🍀
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町:日本語を話せない子供達はどんな困難に直面しているのでしょうか。
田中:友達とコミュニケーションが取れず、先生が何を言っているのか分からないために孤独を感じている子が多いです。子供は語学習得が早いというイメージがありますが、あっという間に上手になるわけではありません。また「何で自分が日本にいるのか」ということに折り合いが付けられていない子もいます。
町:勉強にもついていけないのでは。
田中:母国で勉強ができた子でも、日本語の壁があるのでテストで0点を取ってしまい自信を失ってしまうこともあります。そうすると学校に行くこと自体が嫌になってしまいます。
日常会話ができるようになるまで1~2年ぐらい、さらに学年相応の勉強が分かるようになるまでプラス5年ぐらいかかります。学力が積み上がっていませんので、高校進学などのハードルが高くなるなど、子供の可能性を狭めてしまっているのは大きな問題です。
町:他にはどんな課題がありますか。
田中:もう1つの言葉の壁としては、母語の言葉が育たないという課題です。特に日本で生まれ育ったり、10歳以下で日本に来た子供は、家の中でいくら母語を使っていても、一歩外に出たら日本語という環境ですので、母語をどんどん忘れてしまいます。
町:親とのコミュニケーションも難しくなるということですか。
田中:最初から母語が言語として身に付かない子供もいて、親との共通言語が失われてしまうということがあります。ヤングケアラーとして通訳の役割を期待されるけれど、母語が分からず精神的に負荷がかかっているというケースもあります。
いわゆる“出稼ぎ”というイメージがあり、いつか帰るという前提を日本社会は持ち過ぎていると感じます。子供のことは親が何とかするべきという自己責任論により放置され、支援がゼロという自治体も少なくありません。
町:YSCではどんなプログラムを提供しているのですか。
田中:昼間は日本語学校、高校受験を控えた子供達の予備校、学校外の学びが必要な子供達のフリースクールとそれぞれのニーズに合わせた学びの場を提供しています。また日本語には問題のない子供が塾代わりに苦手な勉強をする放課後支援もしています。
町:学校との連携は。
田中:YSCに来ている子供達は、年間300~350人ぐらいいますが、半数以上が学校や行政からの紹介です。多文化コーディネーターが学級担任や管理職の方と密にコミュニケーションを取って、どのぐらい日本語が出来ているかなど1カ月に1回学習報告書を送っています。
また学校に通う前の子供の場合は、その子の人となりや好きなものなどの情報を学校に伝えて、受け入れ態勢を整えられるようにしています。またYSCではこういうサポートをいついつまで出来ますが、その間を出席扱いに出来るかという打診を学校側にすることもあります。
町:きめ細かい支援をしているんですね。
田中:保護者が日本語が分からない場合やムスリムのお子さんに対して学校がどうしたらいいか分からないという時には、3者面談に同席することもありますし、対応をまとめた資料を渡すなどのサポートもしています。
町:遠くから来ている子供もいるそうですね。
田中:埼玉や千葉周辺からも1時間半から2時間ぐらいかけて通っています。あと地域間格差は積年の課題で、2016年からzoomを活用し、北海道から沖縄までカバーしたオンライン教育も展開しています。コロナ禍以降は県の教育委員会からの委託で授業料を肩代わりするという契約をしている自治体が7つあります。
町:自治体によって温度差はありますか。
田中:外国人の方に定着してもらいたいという地方自治体では子供の教育支援への意識がすごく高まっています。広い県内に満遍なく届けるとなった場合にはオンラインが有効な手段ですが
オンラインで質の高い日本語教育が提供できる団体も限られていて、自治体が積極的に体制整備したいと考えているのに、対応できる専門性のある団体が少ないという逆転現象が起きているのはすごくもったいないです。
町:支援団体を育成することも課題ですね。
田中:YSCでは2020年度から中間支援にも着手をしていて、外国ルーツ支援をするNPOなどの基盤強化に必要な研修会やオンライン授業のノウハウを地方の団体に提供しています。
ただ地方では日本語教育以外でも人手不足や人材の高齢化が進んでいますので、外国人と日本人を分けるのではなく、合理的配慮をすることで外国ルーツの子供も参加できる支援の形も考える必要があります。
町:色々な国をルーツに持つ子供が通っていますね。
田中:フィリピン、中国、ケニア、アフガニスタンの子達が一緒にけん玉をやるというようなシチュエーションが結構あります。まるでインターナショナルスクールにいるみたいでみんな楽しんでいます。
勉強は嫌だけど、友達に会いに来る感覚です。YSCに来れば同じ境遇の子と一緒に学べますし、まだ学校に繋がっていない子供は、ここで初めて日常的に他人と話す環境が持てるということになります。
町:学校とは違う環境作りを心掛けているのでしょうか。
田中:学校や家庭で苦しい状況の子供もいますので、ここに居る時だけは安心できて大人を頼っても良い空間になるようにしています。居場所と思ってもらえるように意識して関わっていますので、先生も友達みたいで一緒にいると楽しいから好きと言ってくれる子が多いです。
町:親の孤立を防ぐことも重要ですね。
田中:保護者とは常に連絡を取って連携しています。特にYSCは月謝制なので支払いが難しい家庭も最初に把握しています。奨学金を希望する時にはヒアリングをしますので、親御さんの就労状況も伺います。不安定な状況の場合は就労サポートの担当者に繋ぐこともあります。
町:公的な機関から情報がきちんと届けばいいのですが。
田中:情報へのアクセスがどうしても限られてしまうので、進学時には奨学金や助成金の情報を橋渡しするだけでも、安心して子供の将来を考えることができます。教育に関することだったらYSCに繋がれば何とかなると信頼してもらえていると思います。
町:排外主義的な雰囲気が広がっています。
田中:やはり啓発や教育が不十分なんだと思います。私も在日ルーツですが日本人のアイデンティティーを持って生きています。日本生まれ日本育ちの外国ルーツの子供は沢山いますが、そういうことが直視できておらず、多様な人々が生きている社会であるという基本的な土台がないような気がします。
町:残念ながら差別は無くなりません。
田中:大事なのはマイノリティーが守ってもらえるという安心感を持てるかどうか、つまり差別を受けている人を守ることができる人が増えて、回避行動を一緒に取ってくれるというような実体験を積み重ねることです。
町:何が差別に当たるか分からない日本人もいるのでは。
田中:マイクロアグレッションのような「お箸上手だね」と言われて傷付く人がいるとは予想がしづらいと思います。初対面の人に宗教を尋ねるとか、見た目について言及するなど、共生社会におけるマナーが明確になっていません。最低限これはやっては駄目ということを、日本社会の中で明文化する共生社会マニュアルみたいなものが必要かもしれません。
町:埼玉県蕨市や川口市に住むクルド人がヘイトの対象になっています。私は蕨市が地元なので駅をよく利用するのですが、はっきり言っていつも平穏です。
田中:私の知り合いにも川口市内でクルド人の子供の学習支援をしている人がいますが、夏以降かなり子供が危険な目に遭うことが増えてきていて危機感を持っていますし、どうやって身を守るかを子供達と一緒に考えているそうです。子供達に矛先が向かってしまうことが長年繰り返されていますので、周りの大人がしっかり止めなければなりません。
町:企業に出来ることはありますか。
田中:外国ルーツの方が安心して働ける環境を企業が整備してくれたら、色々な循環が良くなります。保護者の経済状況の安定は、子供の養育環境の改善に繋がりますし、外国ルーツの若者の就労の間口も広がります。また母国語と日本語のバイリンガル人材という視点で考えると、新たに来日する外国人人材と日本人従業員との架け橋になる役割も担えます。
町:人口減少時代を迎えている日本では外国人の人材は必要不可欠です。
田中:外国人に日本に来てもらうために国も子供の教育環境を整備するという流れに変わってきていますが、中身を国任せにせず、市民がどうやって作っていけるかが、一番の鍵になります。
日本に来るのは都合の良い労働者ではなく、生活者であり1人の人間です。その人と家族の人生と生活を丸ごと引き受けるということなんです。日本社会の一員であり私達と何ら変わりがないという意識を持って欲しいと思います。
■取材後記■
「外国ルーツの子供達が、いつか自分のルーツを語らなくていい社会にしたい」みんな〈普通〉の子供であり、1人1人が〈普通〉に生きていける当たり前を届けていきたいと田中さん。自分で住む国を選べない外国ルーツの子供達が、ヤングケアラーの子供達の姿と重なりました。
生まれた環境のせいで、本来の能力を発揮できず、選択肢を制限されている状況を見て見ぬふりをして良いわけがありません。何かを諦めることなく子供達が未来や夢を描けるようにするために、大人が責任を持って行動する必要があります。
子供達には同じ苦労をさせたくない…
人権教育啓発推進センターが発行する月刊誌「アイユ」12月号では、外国にルーツを持つ子供達のための教育支援事業「YSCグローバル・スクール」を運営するほか
日本語を母語としない若者の自立就労支援に取り組むNPO法人青少年自立援助センターの田中紀宝さんにお話を伺いました。
「外国ルーツの子供達が、いつか自分のルーツを語らなくていい社会にしたい」と活動している田中さん。排外主義的な雰囲気が広がっていますが
すでに多様な人達が共に暮らしている社会であることを直視できていないと指摘する田中さんのインタビューを2回にわたりご紹介します。
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町:10代の時にフィリピンに留学したお話から聴かせてください。
田中:フィリピンの公立ハイスクールに留学したのは16歳の時でした。小中学校で酷いいじめを経験し、高校生になれば抜け出せると思っていましたが、人とのコミュニケーションが苦手で…。学校を辞めようとしていたタイミングで、父親の知り合いでJICAの海外青年協力隊でフィリピンに赴任していた方に、一緒に行かないかと言ってもらったんです。
町:英語は話せたんですか。
田中:どちらかというと英語は苦手で、フィリピンの言葉も国に関する知識もなく、ゴミの山があって貧しいというイメージしかありませんでした。ですがフィリピンに着いた途端に、人が生きているエネルギーを感じたんです。当時の私は生きる気力を失いかけていたので、それがとても印象的で心惹かれました。
町:留学に関してご家族は。
田中:父も一緒だったのですが、同じように思っていたようで、どうせ高校を辞めるなら行ってみるかと背中を押してくれました。高校2年になった時にフィリピンに留学し1人暮らしをしました。マニラから車で3時間半ぐらい行った山に囲まれた田舎で、棚田が広がり水牛が歩いているような土地で、日本人は私しかいませんでした。
町:16歳で1人暮らし、しかも異国の地での生活は大変だったのでは。
田中:まだ子供でしたので町の人達がすごくかわいがってくれました。言葉も分からず買いたい物も買えないような状況でしたが、友達も含めて手を引っ張って色々な場所に連れて行ってくれて、ご飯も食べさせてくれました。
町:フィリピンの人達は優しいですよね。
田中:何でこんなに親身になってくれるんだろうと思いました。タガログ語はあまり上達しませんでしたが、それでも誰1人私を見捨てることはなく、村の中を歩けばみんなが声を掛けてくれて心が次第に元気になりました。
町:本当に貴重な経験ですね。
田中:結局1年滞在し、日本に戻ってフリーターをしながら旅費を貯めて、日本とフィリピンを往復する生活をしていました。いつかフィリピンのために役に立ちたいという想いがあり、20歳の時に再びフィリピンのセブ島で暮らすことを決めました。
町:すごい行動力です。
田中:セブ島周辺で使われている「ビサヤ語」の先生に出会って、半年ぐらいで話せるようになったので、メディアのアテンドなど少しずつ通訳の仕事の手伝いをするようになりました。日本のNGOのスタディーツアーの通訳として、セブ島市内のスラム街に行く機会があり、これがきっかけでスラム街を支援する活動に参加することになりました。
町:全ては繋がっているんですね。
田中:貧困の実態が見えてくる中で、根本的な解決を目指すためには大学で学ぶ必要があると考えました。突拍子もないのですが、国連の職員になろうと決めて帰国し大検を受けました。
勉強嫌いだったので苦労しましたが、AO入試が広がり始めた頃で、フィリピンでの経験を論文にまとめて試験に臨み合格し、亜細亜大学の国際関係学部に24歳で入学しました。目標がありましたので主体的に学ぶことが出来ました。
町:教科書とは違う本当の学びですね。活動はどんな風に広がっていったのでしょうか。
田中:大学2年の時に、フィリピンの児童養護施設を日本からサポートしないかと声をかけてもらいました。学生団体としてNGOを立ち上げて、日本から学生を集めてスタディーツアーを実施して寄付をしたり、外国人の方が多く暮らしている地元の福生市で日本語のボランティア教室も開催しました。
ちょうど大学4年で、卒業後の進路を考えるタインミングでしたので、NGOをそのまま引き継いで活動を続けることになりました。その教室で日本語も分からず学校では何の支援も受けていないフィリピンの女の子に出会いました。
町:留学した時の田中さんと変わらない年齢です。
田中:国内の外国人の問題が全く視野に入っていなかったことに気付かされましたし、私を温かく迎え入れてくれたフィリピンから来た人が、日本で冷たい仕打ちを受けていることに衝撃を受けました。恩返しのひとつとしてしっかり取り組まなければと思いました。
町:日本語教室に生徒は集まりましたか。
田中:子供に特化した教室を開催したところ、フィリピンだけでなく、中国や隣の羽村市の日系ペルー人の子供など、どこに居たのかというぐらい沢山の子供が集まりました。本格的に活動を続けるにあたり、文部科学省が展開していた外国人の子供の教育のための「虹の架け橋教室」という事業から補助金をもらうことが出来ました。
町:活動を続けるには資金が必要です。
田中:1事業あたり予算が年間2,000万円ほどで、公的支援としては後にも先にも一番大きな額でした。それまではボランティアでやっていて赤字でしたが、2010年4月からは人を有給で雇用できるようになりました。
町:今から15年前ですがスタッフはどんな方が。
田中:仕事だったらやりたいと応募してくれた課題意識を持っている日本語教師の専門家や塾講師経験者、海外で暮らした経験がある人や多文化コーディネーターをしていたなど、勉強以外の子供のケアや学校との調整をしてくれるスタッフも入ってくれました。
町:ボランティアでは活動の継続は難しいですね。
田中:最低限の給料が出るのであれば携わりたいという人は結構います。留学生向けの日本語教師が不足していると言われていますが、求人を出すとYSCの空きポストが出るのを待っていたと地方から応募してくれる人がいます。逆に言うと、外国人の子供の日本語教育で仕事になる環境が、未だに整っていないということになります。
町:文科省の事業は今も継続しているのでしょうか。
田中:元々、国策で日本に招いていた日系ブラジル人や日系ペルー人の労働者のみなさんが、2008年のリーマンショックで派遣切りに遭ったため学校の月謝を払えなくなり、不就学や不登校になった子供を救済するために始まった事業でした。
ですが2015年にリーマンショックの影響は無くなったと文科省が判断して事業が終了になり、自治体が主管する枠組みに変更になってしまいました。
町:いきなり補助金が無くなったということですか。
田中:はいゼロになりました。他の団体は規模を縮小するか辞めるかという選択をしましたが、YSCはボランティアか有料にするかの二択を迫られました。そんな中で、保護者の方から、お金を払ってでもいいから子供に日本語を学ばせたいという声が多く上がったんです。
町:有料化には反発もありそうですが違ったんですね。
田中:本来は国が無償でやるべきことなので、ボランティアや支援者からは有料化への強い抵抗がありました。また就労が不安定で困窮している保護者からお金を取る方法では成立しないのではと思っていたのですが、応募してくれた100人のうち7割は月謝を払いますということでした。月謝や助成金で足りない分はクラウドファンディングなどでサポートしてもらいました。
町:親御さんの切実な想いが伝わってきます。
田中:今でも外国人保護者は教育に無関心みたいなイメージを持たれることがありますが、私達が出会ってきたみなさんは全然そんなことありません。寄付が集まったので無償で大丈夫ですと伝えても、ちょっとでもいいから出したい、出すことで子供に教育を受けさせるという責任を持ちたいと言って下さいます。
町:外国の方はすでに第2世代、第3世代になりつつあります。
田中:日本語が分からずに苦労した第1世代のみなさんは、子供達には同じ経験をして欲しくないという強い想いを持っています。そんな親御さんの頑張りにも支えてもらいました。当時はまだクラファンをやっているのもうちぐらいしかなく、何かしたいと関心を寄せてくれる日本の方も沢山いました。
町:娘をフィリピンに送り出したお父さんはどんな言葉を。
田中:すごく心配していたと思いますが、最終的には日本語教育を含めた外国人支援の土台は俺が作ったぐらいに思っていました。時代も追いついてきて社会的信用も得られ事業も軌道に乗っていましたので、2019年に亡くなった時には、父も安心してくれていたと思います。
ですが、本当に心配していたのは母でした。フィリピンに行く時は「もう娘は死んだと思うことにした」みたいな感じのことを以前言っていました。
町:30年前ですと携帯もない時代でした。
田中:インターネットも繋がらず、手紙も国際郵便は3カ月に1通ぐらいしか届かなかったのでほとんど音信不通に近かったんです。今は母も温かく見守ってくれています。
「アイユ」12月号、NPO法人青少年自立援助センターの田中紀宝さんインタビューの後半に続きます
自分のことは自分で決めたい…
ラジオNIKKEIで毎月第4金曜日17時30分からOAしている、全ての患者のための医療情報番組「賢い患者になろう!」年内最後の収録でした。
一緒に番組をお送りしている山口育子さんが理事長を務める認定NPO法人ささえあい医療人権センターCOML(コムル)」が設立されたのは
まだ患者が医師と対等では無かった1990年。受け身ではなく自分の病気をきちんと知り、主体的に医療に参加することを目指して活動をスタートさせました。
山口さん自身25歳の時に卵巣がんを発症。まだがんを告知していない時代で、病名や病状を隠す医師に「自分のことは自分で決めたい」と意思表示をしたことなど
当時の闘病の様子やCOMLとの出逢い、これまでの歩みを番組のタイトルにもなっている「賢い患者」に山口さんは綴っていますので、ぜひ手に取っていただけたらと思います
そして1990年は私にとっても忘れられない、母がくも膜下出血で倒れ車椅子生活が始まった年。母の介護がきっかけとなり伝え手になったのが1995年のこと。
アナウンサー時代から医療や介護の問題をテーマに企画取材をしていましたが、実はCOMLを創設した辻本好子さんとご一緒したことがありました。
2000年の始めは医療事故が相次ぎ医療不信が高まっていましたが、そんな中で対立や追及ではなく、辻本さんは医療をより良いものにするために医療者と患者が〈協働〉することを理念に掲げていました。
その辻本さんが2011年に胃がんのため亡くなり、二人三脚で活動をしていた山口さんがCOMLの代表のバトンを受け継ぎ今も活動を続けています。
辻本さんや山口さんが目指してきた「患者が主役」の医療を実現するという同じ目標を持って私も長年、取材や啓発活動をしてきました。
30年の時を経てこうして山口さんと番組でご一緒できたこと自体が医療が大きく変化したことの証だと思います。来年もコツコツ伝え続けていきます
1月のテーマはCOMLがクラファンで作成した「医療かるた」について、2月はCOMLに寄せられた7万件を超える医療相談から実例を紹介し、身近な医療費について考えます。
山口さんと一緒にお伝えしているラジオNIKKEI「賢い患者になろう!」はradikoのタイムフリーやPodcastでも聴けますのでぜひご利用下さい☞
https://www.radionikkei.jp/kashikoi/










