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今シーズンから大谷翔平を迎えたエンゼルスは、今から57年前の1961年にメジャーリーグ(MLB)の球団拡張により誕生した。当時のオーナーは「歌うカウボーイ」こと歌手兼俳優のジーン・オートリー。球団名のエンゼルス(天使)は、ホームタウンのロサンゼルスがスペイン語で「天使」を意味することからつけられたものだ。
天使の街に誕生した新興球団は、老舗のカンザスシティ(現オークランド)・アスレチックス、同じく新設のワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)を1年目から上回り、ア・リーグ10球団中の8位と善戦。2年目の62年には、勝率5割を超えて3位に躍進した。
だが、そこから初優勝までの道のりは長かった。64年にはディーン・チャンスが20勝を挙げて球団初のサイ・ヤング賞投手になるも、チームは5位。65年に球団名をそれまでのロサンゼルス・エンゼルスから「カリフォルニア・エンゼルス」に改め、66年にはディズニー・ランドのそばに現在も本拠地として使用しているアナハイム・スタジアム(現在の名称はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)がオープンしたが、チームはなかなか上位に進出できなかった。
69年の2地区制導入後も、ア・リーグ西地区の優勝争いには縁がなかったが、71年オフに大きな戦力が加わる。球団創設とともにMLBデビューし、オールスターに6度出場したチームきっての花形のジム・フレゴシを放出して、メッツから獲得した4人の中に、のちに野球殿堂入りするノーラン・ライアンが含まれていたのだ。
メッツ時代から球は速かったが、制球に苦しんでなかなか一皮むけることのできなかったライアンは、新天地で見事に花開いた。移籍1年目の72年にいきなり19勝を挙げ、329個の三振を奪って最多奪三振に輝くと、そこから3年連続の300奪三振超え。73年には383奪三振のMLB新記録を打ち立て、この年から2年連続で20勝以上をマークし、75年までにノーヒットノーランを4度も達成した。
そのライアンに加え、74年からは左の本格派のフランク・タナナが台頭。タナナは翌75年にライアンから奪三振王の座を奪うと、77年には最優秀防御率を獲得するなど、左右の二枚看板を確立する。打撃陣では、誕生して間もないFA制度を利用して、77年にボビー・グリッチ、ドン・ベイラーらを加えるなど、着々と戦力を整えていった。
そして79年、オートリーオーナーの長年の夢が実現する。前年の途中で現役を引退し、古巣の指揮官となったフレゴシ監督の下、球団創設19年目でついに地区優勝。ベイラーが36本塁打、139打点でMVPに輝くと、グリッチ、そしてこの年からトレードで加わったダン・フォードで「100打点トリオ」を形成。同じくトレードで加入した安打製造機、ロッド・カルーも打率3割1分8厘をマークするなど、バジー・バベシGMの補強策が実った形となった。
この年も16勝を挙げて地区優勝に貢献した「カリフォルニア超特急」ことライアンは、翌年はFAでアストロズへ去るが、82年にはレジー・ジャクソンをFAで獲得。ヤンキース時代にはワールドシリーズの3打席連発で「ミスター・オクトーバー」の異名を取ったスラッガーは、いきなり39本でホームラン王となり、ダグ・デシンセイ(のちにヤクルトでプレー)と「30発コンビ」を組むと、名将ジーン・モーク監督の指揮でチームは2度目の地区優勝を飾る。
79年以来のプレーオフ(チャンピオンシップシリーズ=当時5回戦制)では、ブリュワーズ(現在はナ・リーグ)を相手に2連勝で早々に王手をかけながら、そこから3連敗を喫して敗退。あと一歩のところで、ワールドシリーズ進出はならなかった。
84年にはシーズン最終戦でマイク・ウィットが完全試合を達成するも、惜しくも2位。続く85年も2位に終わるが、翌86年はルーキーのウォーリー・ジョイナーが22本塁打、100打点を挙げ、ウィットも自己最多の18勝でチームをけん引して、3度目の地区制覇。東地区王者のレッドソックスとのプレーオフでも、第4戦まで3勝1敗とリードする。
かつての5回戦制であれば、この時点でエンゼルスのワールドシリーズ進出が決まっていたところだが、前年からプレーオフは7回戦制に変更。王手をかけて臨んだ第5戦、1点リードの9回表2死一塁から悲劇が始まる──。
ここでマウンドに上がった抑えのドニー・ムーアが、「あと1球」から伏兵のデーブ・ヘンダーソンにまさかの逆転被弾。その裏、エンゼルスもしぶとく同点に追いつくが、イニングまたぎのムーアが11回表に今度はヘンダーソンの犠飛で決勝点を献上。続く6、7戦も落とし、エンゼルスはまたしてもワールドシリーズ進出を逃す結果となった。
ムーアはその後、88年のシーズン途中でエンゼルスを解雇されて引退。翌年には35歳で自ら命を絶つことになる。この一件は、78年にFAでエンゼルスに移籍しながら、そのシーズン終盤の銃撃事件で命を落としたライマン・ボストック(享年27歳)、2009年に自動車事故に巻き込まれて同じく現役中に他界するニック・エーデンハート(享年22歳)とともに、球団史に残る悲劇としてファンに記憶されている。
89年には、ドラフト1巡目で入団した隻腕サウスポーのジム・アボットがマイナー経験なしに12勝を挙げると、同じ左腕のチャック・フィンリーも初の2ケタとなる16勝をマーク。フィンリーはこの年も含め10度の2ケタ勝利、今も球団記録として残る通算165勝で、左のエースとして君臨する。
ティム・サーモンが球団初の新人王に輝いた93年も5位に終わり、東中西の3地区制施行2年目の95年はマリナーズと同率首位でシーズンを終えながら、地区優勝を決めるワンゲームプレーオフで敗退。ウォルト・ディズニー社が経営権を握った97年に「アナハイム・エンゼルス」と改名してからも、オーナーとして名をとどめていたオートリー氏は、チームのワールドシリーズ制覇を夢見ながら、98年にこの世を去った。
長年の雌伏を経て、エンゼルスが黄金時代を築くのは、21世紀に入ってからだ。2000年に現在のマイク・ソーシア監督が就任すると、3年目の02年には打ではトロイ・グラウス(00年本塁打王)、ギャレット・アンダーソン、投では先発のジャロッド・ウォッシュバーン、抑えのトロイ・パーシバルらが柱となって、ワイルドカードで16年ぶりのポストシーズン進出。先発ジョン・ラッキー、中継ぎフランシスコ・ロドリゲスのルーキーコンビの働きもあってプレーオフを勝ち上がり、ワールドシリーズではバリー・ボンズ、新庄剛志らのいたジャイアンツとの「ワイルドカード対決」を4勝3敗で制して、球団創設42年目で悲願の“世界一”の座に就いた。
その後、03年に現在のアルトゥーロ・モレノオーナーが球団をディズニー社から買収すると、05年には「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」に改称。04年にFAで獲得したブラディミール・ゲレーロ(今年、野球殿堂入り)がア・リーグMVP、翌年にはバートロ・コロンがサイ・ヤング賞に輝き、08年にはロドリゲスがメジャー新記録のシーズン62セーブをマークするなど、00年代は5度の地区優勝を飾るが、いずれもプレーオフで敗退。14年には、ジャレッド・ウィーバーが自身2度目の最多勝を獲得し、チームも9度目の地区優勝を果たすも、ディビジョンシリーズで敗れた。16年には球団名を創立当時の「ロサンゼルス・エンゼルス」に戻し、現在に至っている。
なお、その歴史の中でこれまで長谷川滋利(1997〜2001年)、松井秀喜(10年)、高橋尚成(11〜12年)と3人の日本人選手が在籍したが、いずれもエンゼルスではポストシーズンとは縁がなかった。4年ぶりのポストシーズン、そして16年ぶりのワールドシリーズ進出に向け、大谷の二刀流はチームを後押しできるだろうか?
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ワールドチャンピオン(2002年)
1992年、ティム・サーモンがメジャーデビュー。翌1993年に打率.283・31本塁打・95打点を記録し、新人王に輝いた。また1994年にはギャレット・アンダーソンがメジャーデビュー。翌1995年に打率.321、16本塁打、69打点で新人王投票で2位に入った。1990年代はフィンリー、サーモン、アンダーソンを投打の柱として、一定の成績は残すものの、なかなか優勝には縁がないシーズンが続いた。特に1995年は8月2日の時点で2位のシアトル・マリナーズに13ゲームもの大差をつけたが、その後失速して同率首位に並ばれ、ワンゲームプレーオフではマーク・ラングストンの乱調で1-9と大敗し地区優勝を逃した。その1995年にラムズがセントルイスへ移転したことで、1997年にはアナハイム・スタジアムが野球専用球場に再改修された。またこの年にはウォルト・ディズニー社も経営に参加(この頃ディズニー社はNHLのアナハイム・ダックスを創設するなど、プロスポーツチームの経営に注力していた)。球団名も地元アナハイムの地域密着型チームを目指すという理由から、ホームタウンの名前を冠して「アナハイム・エンゼルス」に変更した。
2000年からはマイク・ソーシアが監督に就任。同年にはトロイ・グラースが47本塁打を放って本塁打王に輝いている。グラースは翌2001年にも41本塁打を放ち、2年連続でシルバースラッガー賞を受賞するなど、チームの主砲として活躍した。
2002年には、地区2位だったものの、99勝63敗でワイルドカードを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝1敗で下し、リーグチャンピオンシップシリーズではツインズを4勝1敗で下して初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではバリー・ボンズ擁するジャイアンツと対戦。ジャイアンツもワイルドカードから勝ちあがっており、史上初のワイルドカード獲得チーム同士の対戦となった。第1戦では敗れたものの、第2戦では弱冠20歳のフランシスコ・ロドリゲスが中継ぎとして登板し、3回を投げて初勝利をあげ、史上最年少のワールドシリーズ勝利投手として一躍注目を浴びた。続く第3戦は10対4で勝利。しかし、第4戦、第5戦と連敗し、ジャイアンツに王手をかけられてしまう。地元に戻った第6戦では、7回まで0対5とリードされていたが、7回と8回に3点ずつ取って、6対5で逆転勝利を収めた。第7戦では、先発のジョン・ラッキーが6回まで投げ、ジャイアンツを1点に抑え込むと、ドネリー、ロドリゲス、トロイ・パーシバルと繋ぎ、最終的に4対1で勝利。球団創設42年目にして初のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
黄金期到来(2003年-2009年)
2003年のシーズンオフにヒスパニックで実業家のアルトゥーロ・モレノが球団オーナーに就任。約1億4600万ドルを費やし、大規模な戦力増強を行った。ブラディミール・ゲレーロ(5年契約、計7000万ドル)、バートロ・コローン(4年契約、計5100万ドル)、ケルビム・エスコバー(3年契約、計1875万ドル)といった一流選手を次々と獲得。補強の効果もあってか、2004年以降は5度の地区優勝を果たすなど、安定した強さを誇っている。
2004年は、2位アスレチックスを1ゲーム差でかわし、4度目の地区優勝。しかし、続くディビジョンシリーズでは、この年86年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたレッドソックスに3連敗を喫した。2005年には、球団名を「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」と改称。この年には、地区2連覇を果たし、ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝2敗で下すが、リーグチャンピオンシップシリーズでは、88年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたシカゴ・ホワイトソックスに破れ、リーグ優勝はならなかった。
2006年は2位に終わったが、2007年には、2位シアトル・マリナーズをシーズン終盤で突き放し、8度目の地区優勝を果たした。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックスと対戦し、またしても3連敗を喫してしまった。
2008年はエースのジョン・ラッキーやケルビム・エスコバーを開幕から欠き苦戦が予想されたが、前年不調だったアービン・サンタナと8勝を挙げたジョー・ソーンダースが開幕から最多勝争いに絡む大活躍。新加入のジョン・ガーランドや前年2桁勝利のジェレッド・ウィーバーも期待通りの活躍を見せ、5月には既に独走態勢に入っていた。ラッキーも復帰後は好投を見せ、結局ローテーション投手全員が10勝を成し遂げた。打線もFAで加入のトリー・ハンターや8月にトレードで加入したマーク・テシェイラがクリーンナップに座り、元来のスモールベースボールを軸とした安定した攻撃力を保った。チームは勢いそのままに9月上旬に早くも2年連続の地区優勝も打ち立てた。また、チームが圧倒的に勝ちを重ねる状況もあり、クローザーフランシスコ・ロドリゲスは開幕から驚異的なペースでセーブを稼ぎ、セーブのシーズン記録を更新した。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックス相手に1勝3敗とまたも苦杯、オフにはロドリゲスとテシェイラがFAで退団し、新たな戦いを強いられることになった。
2009年もラッキーやサンタナ、エスコバーをはじめとする先発投手陣に故障が相次ぎ困難なスタートとなった。将来有望な若手投手であるニック・エイデンハートに期待が集まったが、4月8日の登板後に交通事故で死去するという衝撃的な出来事が起きる。このニュースは全米でも大きく取り上げられ、翌日の試合は中止になった。その後、レイズのエースだったスコット・カズミアーをトレードで獲得することでローテーションを再建。主軸を担うようになったケンドリス・モラレスの活躍や復帰したサンタナの好投もあり3年連続の地区優勝を達成した。地区シリーズでは3年連続でレッドソックスとの対戦となったが、3連勝で2007年&2008年の雪辱を果たした。リーグチャンピオンシップはヤンキースと争ったが、2勝4敗で敗退しワールドシリーズ進出はならなかった。
2010年以降
2010年は可もなく不可もない成績で開幕のスタートを切る。ところが、5月29日のシアトル・マリナーズ戦で満塁サヨナラホームランを放った主砲のモラレスが喜びのあまりジャンプしてホームベースに着地した際、バランスを崩し転倒して左足下腿部を骨折。結局、モラレスは残りのシーズンを棒に振ることになった。また、開幕当初は4番を務めた新戦力の松井秀喜も期待された成績を挙げられず。7月にダン・ヘイレンをトレードで獲得すると、強力な投手陣の下で後半戦に追い上げを見せた。しかし、得点力不足が響いて80勝82敗にとどまり、地区3位でシーズンを終えた。
2011年は地区2位ながら優勝したレンジャーズから10ゲーム差も離された。実質1年目のマーク・トランボが29本塁打でブレイクした。オフにはアルバート・プホルスを10年2億5400万ドル、C.J.ウィルソンを5年7750万ドルで獲得した。
2012年はジェレッド・ウィーバーが自己最多の20勝で最多勝のタイトル、史上初となる新人での30-30を達成したマイク・トラウトが新人王のタイトルを獲得するも、89勝73敗で地区3位に終わった。
2013年オフにはマイク・トラウトと2019年までの6年総額1億4450万ドルで契約延長し、チームの中心に据えた。
2014年は、5年振りに地区優勝を決めた[2]。実質1年目のマット・シューメイカーが16勝でブレイクした。
2015年は5月5日のシアトル・マリナーズ戦で、メキシコ民族衣装のソンブレロ帽子をかぶった人数でギネス世界記録を達成した[3]。オフには正遊撃手としてトレードでアンドレルトン・シモンズを獲得した。
2016年オフには正捕手としてトレードでマーティン・マルドナードを獲得した。
2017年途中にトレードでジャスティン・アップトンを獲得した。オフにはポスティングシステムで大谷翔平を獲得した[4]。FAのザック・コザートを獲得し三塁手にコンバートした。正二塁手としてトレードでイアン・キンズラーを獲得した。
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