MACF礼拝説教要旨
2025年7月13日
「いのちの息を」
創世記2章
4これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、 5地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
6しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
8主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
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前回私たちは創世記1章から、神が人を神の形に創造し、地の命あるものをケアする役割を託し、その配置も存在もベリーグッドだったのだということを学びました。
今回は人間が造られた記述がもう少し具体的に書かれている箇所からいくつかのことを学びたいと思います。
1)アダム:人、それは土から造られた存在
聖書の中にある名前はその名を託された人の生き方や使命、特徴などを表現していることがとても多く、例えばアブラハムという名前は「褒め称えられる父」イザヤは「神は救い」ノアは「休息・慰め」という意味があります。
さて、アダムという名前は「人・人類」という意味がありますが、その語源はアダマー(土)です。
つまり土から造られた存在としての人間であるということを忘れてはならないのです。
そこにあるのは「弱さ・もろさ」であり、「土から取られ、土に帰る」という人間の一生を意識させて
くれる名前です。
2)その鼻にいのちの息を吹き入れられ、生きるものとなった
土から造られた人間は、それ自体ではどうすることもできず、いわば粘土細工のような感じですが、
神様がその人間に「いのちの息を吹き入れる」ことで人間は生きるものとなったと聖書は教えます。
これは肉体的に生きるものとなったという面と、神様との関わりにおいて霊的な意識を理解するものとして
生きるものとなったという意味があります。
神が吐き出した「息の風」を人間が吸い込み、それによっていのちがはじまったということなのです。
ちなみに、赤ちゃんは、生まれてすぐ最初に息を吸い込みます。お腹の中にいる間は、へその緒を通して母親から酸素を受け取っていますが、生まれてくると、肺呼吸を始めるために最初に息を吸い込みます。
この創造ものがたりは、神様がアダムを赤ちゃんとして創造したとは書いていません。創造のプロセスの中で、赤ちゃんから大人になるという流れは完全に無視されていて、いわば大人として創造されているとしか読むことができません。神話的、物語的に読まざるを得ないのは、そういうことがあるからだと思います。
大切なメッセージは、人は、神からのいのちの息を吸い込むことでいのちが活性化し、生きている自覚、関係性の確認が始まりました。
3)人は最善の環境の中に置かれ、厳粛な命令を与えられた
神様は人間をとても素晴らしい環境のなかに置いてくださいました。神様ご自身が用意した素晴らしいエデンの園です。エデンの園の「エデン」とは、ヘブライ語で「喜び」「歓喜」という意味があります。そして、その中で神の命を豊かに受けながら、その託された役割を果たすべく人間としての営みが始まりました。
創世記2章を読み進めていくと神様からの厳粛な命令がでてきます。
15主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
16主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。
17ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
神様との絆は「愛」の関係の上に成り立っています。人は神の命を受けて生きたものとなり、そのお方の
力や愛で地をケアする役割に邁進することができるのです。しかし、その関係に歪みが生じた場合
人は自分自身の立場や自分自身の存在意味や内容を誤解し始めるのです。思い上がりが生まれ、神に対する
深刻な反抗が生まれ、育つのです。
そこで、神様は最善の物の提供をなさりながら、ひとつだけ禁止事項を示しました。しかも、
「これを食べるならあなたは必ず死ぬ」という深刻なものでした。ここでの死は「肉体的な死」もそうですし
「霊的な神様との関係における死」も意味しています。
4)人がひとりでいるのはよくない
神様はこれらの命令を授けたのち、人のために助け手となる存在を用意されました。
よく「人は一人では生きていけない」と言われますが、まさに、神様は最初から、そのことについて
ご存じでした。
「支援的に存在する人」「支える人」「助ける人」の存在が私たちすべて、ひとりひとりに必要であることを
神様はご存じです。結婚は、このことに関する一つのとても重要な結論になるでしょう。
しかし、かならずしも結婚ということだけでなく、「支援的に関わってくれる人」の存在を意識しながら
生きられたら、それはそれでとても大きな力を得ることになると思います。
結婚すれば必ず自動的に幸せな支え合いが生まれるかと言えば、決してそんなことはないだろうと思います。お互いに学び合い、お互いに自制しあい、お互いに心を開いて支援的な言葉や行動を習得する中ではじめて「結婚できてよかった」という思いに至るのだろうと思います。
私たちにはいわゆる「伴走者」が必要です。孤立することは私たちの人生を否定的に追い込んでしまうことが多いのです。
相談相手、遊び相手、仲間、味方、どんなかたちであれ、誰かが自分のことを聞いてくれて、受け止めてくれて
支援的にわかってくれると頷けるなら、その人の人生は豊かになると思います。
「礼拝の交わり」は、私たちが神様と繋がり、互いに繋がっている」ということの具体的な共有の場です。
ひとりではない、という感覚的な喜びと安心の共有の場です。
私たちは土から造られ、土に返る存在であり、神様のいのちの息によってのみ、生かされ、神様の愛と他者からの愛を受けて人生を豊かにできる存在です。そして、あなたの存在も誰かの助け、励ましになっています。
お互いに「いてくれてありがとう」の雰囲気を共有しながら生きていける時、私たちの心は元気になっていくのです。
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