MACF礼拝説教要旨2024年6月16日 | パスタ〜Kazの「いてくれてありがとう」ノート

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関根一夫の感じていること、気になっていること、そして説教ノート、写真などあれこれ掲載予定です。

MACF礼拝説教要旨

2024年6月16日

「信仰とは」

ヘブライ人への手紙11章

1信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 

2昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

3信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、

従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

ERV訳では

1「信仰」(神とイエスの「忠実さ」によって生まれた関係と

神の約束に対しての私たちの信頼)とは、私たち人間が望んでいることを

現実にするものであり、神が約束している未だ目にしていないもの全てを保証するものである。 

2神はこの様な信仰を持って生き抜いた先人たちのことをとても嬉しく思っている。

3信仰は私たちに、神の命令1つでこの世を造り上げたという知識を与えてくれる。

要するに、私たちが今見ているものは見えないものによって造られたということだ。

***

一般論としての「信仰」「信頼」

私たちの生活は、どこかで必ず信仰や信頼を土台にしています。

生きるということ自体「何かを信じて生きています」あるいは信じていなくても

どこかに運んで行かれていることは否定できません。

たとえば、「明日はあるのか」「来年の計画は意味があるのか」まだ見えていませんし

何もわかっていませんが、私たちはそういうことについてある程度自然に「立案し

期待し」うっすらとした期待をもって性格しています。

土台は「信頼」です。漠然とした楽観的な信頼と言えると思います。

落語家の古今亭志ん生師匠は「鉄の塊が空を飛ぶことなどあり得ないのだ」と言って

飛行機に乗らなかったことで有名ですが、彼なりの「鉄の塊は空など飛ぶはずがない」

ということを信じていたわけですね。私たちは深い理論を知らなくても飛行機は飛ぶものだ

と信じているから交通機関として使用するわけですが、どちらも、いわば信頼している

土台の違いによって起こる出来事です。

いずれにしても、私たちの日常は自分の中にある「信頼」「信仰」によって全く方向が変わりますが

私たちは何かしらを感じとり、何かしらを信頼して生きています。

 

ヘブライ人への手紙に書かれている信仰はもう少し具体的な内容を示しています。

それは「神様ご自身の中にある信頼関係」私たちは唯一の神と言っているわけですから

言葉の上では矛盾を感じますが「三位一体の神」「父と子と聖霊」というその支援的で

不可分な関係と信頼の存在そのものが私たちの願いに応え、まだ見ていない永遠の世界を

確認させてくださるという面と私たちが福音を聞いて、神様が私、私たちを心から愛し、犠牲を厭わず、祝福をもたらそうとしてくださる約束を現実のものとして信頼することという二つの側面です。

 

神様ご自身に対する信頼と神様と私たちの関係における信頼関係のゆえに

私たちは前向きに「生きること」ができるようになったのです。

そして「神様への信頼」「イエス様への信頼は」神様からの愛の働きかけに対する

「意志的な応答」による信頼です。それが信仰です。

 

それまではその信頼関係を「律法を守り抜く」ことで構築しなければならないと

考えていましたからとても難しかったのですが、神様からの恵みの福音が届き

イエス様の贖いがなされ、こちらの側、人間の出来、不出来という条件ではなく

神様が信頼できる存在であり、私たちを愛で包み込んでくださっているという

福音への信頼を心に受け取ることで、まだ起こっていない将来の約束や

神様との永遠の絆を信じて生きられるようになりました。

 

超悲観的な認識から、超楽観的な認識へと変化させられたのです。

神様の誠実さに対する信頼、その約束の確実さに対する信頼によって

実はそういう思いさえも神様が聖霊によって私たちの心に与えてくださるものなのですが

私たちは「安心や安息」を心に育てることができるのです。

 

イエス様の福音をしれば知るほど、私たちは大きな安心を心に受け取ることができるのです。

それは律法の世界ではなく、恵みの世界であり「神が私たちを信じて受け入れてくださる」という

神様の温かい愛に対しての応答だからです。

私たちはその時の気分で「神様は私を嫌っている」とか「神も仏もあるものか」などと

感じてしまうことがあります。私たちは弱さを持っています。

でも、神様ご自身が私たちを誠実に受け入れ、愛し抜き、決して見捨てずケアしてくださっているのだと

聖書は教えています。それに対して、ありがたいこととして頷けたら、それで良いのです。

その根拠は聖書の言葉です。その事実を見たわけではありませんが、信じさせていただけるのです。

不思議なことですね。

この世界は決して「見えるもの」が全てではないということです。

見えないものを信じつつ生きているので「見えてくるようになる」という面が大いにありますね。

 

神様ご自身の存在をかけて「信頼・愛」なるお方であることを示しておられます。

それについて、まず「アーメン」と言えるものでありたいですね。

さらに「私たちへの救いの働きかけの誠実さ、その約束の達成」についてイエス様は

十字架の上で「達成した」と叫ばれて、赦しを確定し、よみがられることで永遠のいのちの

希望を与えてくださいました。

そのことについて「主よ、感謝します。アーメンです」と応答できるものでありたいですね。

 

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MACF礼拝映像はこちらです;https://youtu.be/exaRLLg78Ms