今日の礼拝の説教ライブ版です。
https://youtu.be/0b0NDkzh_jc
お楽しみください。
関根一夫
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MACF礼拝説教要旨
2024年5月12日
「新しい契約に生きる」
ヘブライ人への手紙8章
7もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
8事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。
「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。
9『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった』と、主は言われる。
10『それらの日の後、わたしがイスラエルの家とぶ契約はこれである』と、主は言われる。
『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
11彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで彼らはすべて、わたしを知るようになり、
12わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』
13神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
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1)心の内側に書きとめられる律法
モーセの律法は石の板に書かれました。
ヘブライ人への手紙の著者は「神は私たちの心に律法を書きとめてくださる」と教えています。
それはまさに、人間の努力を超えた、聖霊による働きであり、イヤイヤながら、仕方なく従うという律法ではなく、それを実行し、それを土台に生きることが嬉しくなるような神様からの直接的な
語りかけが心にもたらされるのだというのです。
2)主を知る
その律法は聖霊によってもたらされる神様からのメッセージであり、神様の本質的な心が表明されるので、私たちは神様について知る、というのではなく「神様を知る」ことになるのです。
文字での教えはどうしても「何かについて教える」という形になっていきますが、直接的な
心への促しは「神様が教えてくださった」という実感を伴い、自分の心に近く感じ取れるものです。聖書の言葉を読みながら「神様について」あれこれ考えるというより、「神様からの語りかけ」として受け取れるようになったら、ずいぶん読み方が変わってくるのではないかと思います。
自分の尊敬している人について間接的に誰かから聞くという情報より、自分のところに直接メッセージが届いたら、それほど他者からの説明はいらなくなります。
3)罪の赦しと存在の肯定
神さまを知るというとき、神様は私たちに、十字架をさし示し、まさにその出来事がわたしのためだったことを教えてくださいます。
そして、私たちの存在そのものがもたらした罪、行為も存在も神様に逆らっていた生き方を振り返り思い起こすことができ、それらをすべて赦し、新しい心、新しい生き方を与えてくださることを頷かせてくださいます。
パウロはこの件についてローマの信徒への手紙の中でめぐみあふれる言葉をかきました。ローマの信徒への手紙5章です。
6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。
善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
ここでパウロは
キリストは、私たちが弱かった時・無能力状態だった時、しかも不信心な私たちのために死んでくださった。死ぬほどの愛を示してくださった。
また、キリストは私たちがまだ罪人・神様に反抗している状況の中にいた時、死んでくださった。
キリストは私たちがまだ敵対していた時、死んでくださった
そして、その十字架の死によって神との和解をもたらしてくださったと書き、それゆえ、私たちは
神を大いに喜んでいる。神さまに「いてくれてありがとうございます」と心から言えるような心にしてくださったというのです。
4)新しい契約
私たちははっきり知る必要があります。
実はエゼキエル書の中に似た言葉がでてきます。
エゼキエル書36
24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
人間の努力でいけにえを捧げたり頑張って掟を守り抜くことによる救いは実は存在しないのです。
私たちにはそれらを守り抜く力がないからです。
神様は新しい契約を用意し、神ご自身が契約の執行者となり、人はその受領者として礼拝者として
生きられるようにしてくださったのです。
戒律厳守主義でなく、謙遜に神の愛と赦しの受領を告白しながら、神様を喜びながら生きること。
モーセの律法自体が不要なわけではありません。でも、それらを守り抜かなければ救いはないという発想は間違っているとヘブライ人の記者は教えているのです。私たちは神様との新しい契約のもとに生かされているのです。それは恵みの契約であり、イエスさまの十字架と復活を土台にした、一方的に神様からの愛の贈り物としての律法です。
それを信じ、感じ取り、受け止めるために、聖霊が与えられ、聖霊の促しによって、
神様ご自身を深く知ることができるようになるのです。
神様との関係が「厳しく辛いものではなく」「いてくれてありがとう」の関係に変わるのです。